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28
7月 14

知らない世界の人たち

若い頃は学校が同じなどの条件で知り合う友達が圧倒的に多かったし、特に小学校から受験校だった上に大学は美大に行ったので、常にどことなく近い環境の人が周りにいた。

大学を卒業して何も疑わずに親から支援がもらえると信じきっていた私は、実家に帰らないなら勝手にしなさいと親に突きつけられて喧嘩腰のまま社会に出た。何も考えずに画家になると信じて就活もせずにいた私が流れで始めた職場でなんとなく2年近く働いた。それまで外部との関わりを嫌っていた私がいっきに社交的になったので、その切羽詰まった状況での接客の仕事は自分に大きな影響を与えている。仕事をしてる分には特に違和感を感じてはいなかったけど、それでもその他の趣味的なことや日常の話になるとそこに驚く程の違和感があった。

自分が一般的には多少ズレていると認識はしていたけれど、そのズレの度合いには本人である私が気づく筈もなく、最終的には仕事の条件なども含めつつキモチ的な違和感もあってその職場を辞めた。それから転職して2度の立て続けの失業をした後に、今、色んなタイミグでその頃の職場に戻ってきてしまっている。
10年以上経っているので時代も私自身も変わり、昔のような違和感はほぼない。

以前このブログでも書いたけれども、私は結局どこにいても自分が属していない気がする。地に足つかずふわふわしている。昔の同級生エリート達の中にいても、美術系の似た者同士が集まる中に入っても、それまでの自分と関わりない社会に出てからの日常の中でも、なんなら大好きなネットの世界に入りこんだつもりでいても、どこにも自分は属していないのが自分でもわかる。

だけれどその知らない世界の人たちの中にいるからこそ、ちょっとした共感部分に大きな感激をするし、だからこそ共感できない小さな部分に反発心も感じてしまう。時々そのわかりあえなさに絶望的な気持ちにもなる。それでも私は似た者同士で集ったり、自分の事をすんなりわかってくれそうな似た様な環境で生きてきた人との安心感ではなく、その違和感の方に(めんどくさいけど)より深く興味をもってしまうわけで。(完全に違和感が勝ってしまうとまた別。)

いつでも放棄できる楽な関係よりもちょっとしたひっかかりやしつこさというか、結局そういう関係でなければ、なかなかもう他人に本気では興味も持てなくなっているのかもしれないなぁとも思っている。
そして、そうやって本気で興味が持てる相手は実はそんなにいないし、この先そういう相手がいない人生はいくら一見派手に見えても孤独なもんじゃないかと思ってる。

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27
6月 14

折り返して死に近づいたのか

人に貸そうと思って貸しそびれた漫画をなんとなくパラパラ見ながら、今まで読んでなかった最後の解説に初めて目を通した。この漫画自体が「死」にまつわる内容なので解説も「死」についてのものだった。文中で36歳の誕生日にふと人生折り返した気がしたということが書かれていたけれど、私も近年そういう感覚がある。あーあ折り返しちゃったという名残惜しさと同時に、まだまだ半分もあるのかっていう面倒くさいような気持ちと。

30代になってから若い頃のしがらみや自意識が薄まって大人になるのもいいなぁなんてのんきに思っていたものの、30代半ばを超えた辺りから自分に関してはほとんどもう答えが出てしまっているのかもしれないという焦りや、ここからは何かを吸収するよりも今まで自分がやってきたことを整理していくぐらいしかできないのかもという気持ちから「折り返した」という実感が突然わき出した。

私が「死」について意識し出したのは保育園に通ってる年頃からで、その感覚ははっきり覚えている。漠然としてはいたけど恐がりなのもありスグに死ぬかもと過ってしまう子供時代と思春期だった。気が強いのにうたれ弱いのですぐに死に逃げようとする。かといって具体的に自殺云々というわけでもなくて、苦しくなるとなんとなくあーもう死ぬしかないのかって思っちゃうだけなんだけど、結局は生きるか死ぬかの二択しかないんだという思いがずっとあった。好きなミュージシャンやテレビに出ている有名人が若くして死ぬたびに、この人が死んだのに自分は生きてしまっているということに息苦しくなったりもした。

そうして35歳になる年に震災が起きた。年齢的に折り返すという感覚と、更に現実的に生死について身近に感じる出来事が重なって、それまでの「死」に対する湿った恐怖みたいなものがストンと落ちて、もっと乾いた「死」の気配がやって来た。それは、死が怖いものだと思うと同時に、皆いつか必ず死ぬという当然のことを当然受け入れるしかないという諦めというか覚悟みたいなもの。近頃は親しくなった相手に対して、この人もいつか死ぬんだと真っ先に思うようになった。

近年のこの感覚は「死」に近づいたというよりも「生」を意識しだしたというのに近い気がする。なんかうまく言えないけど、人生折り返してこのまま「死」に向かっているのだろうという確信と共に、でも今ワタシ生きてるのよねっていう「生」への実感が以前より強くなったような。そして、自分にとって大事だと思える相手が今生きてて私の目の前にいるっていう当たり前の状態に甘えちゃいけないなぁとか、自分にとって大事なことをおざなりにしたり後回しにすることは今生きてる自分に失礼だよなとか、とにかく大事だと自分が確信持って思えるものに対してはなるべく丁寧でいたいと思うようになった。

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21
5月 14

何かしなければと思うだけで

ここのところいつも同じ様なうだつの上がらない状況をここに書いている気がする。とりたてて暗い気持ちになるような事が起きているわけでもないけれど何もかもが停滞中な気がしている。バイトは長時間労働でもないし残業がないことも多いけど、特別思い入れがあるわけでもない仕事で一日中立ち仕事をしているとその後に何かしようと思わなくなるし、都心と逆方面で働いているので直帰する事も多く、なにごともなく一日は終わる。楽しいことや良いものや人との出会いもあるし結局自分は幸せだとも思うけど、つかみ所のない毎日。

そんな中で最近は絵を描く事についてよく考える。今までも考えていない訳ではないけれどわりと盲目的に続けてきたし、迷いや止めたい気持ちになっても言い聞かせて迷いを振り払う事以外の選択肢が無かったから強引ではあった。結論から言って絵を描く事は止めないけど、最近は迷えばいいし嫌なら描かなくてもいいし焦る事もないと思えるようになった(たぶん)。と言い聞かせている時点で、やっぱり焦っているのだと思うけど、焦ることほど無意味なことはないというのもわかっている。

もやもやと考えていると答えの様なものが出てきそうななにか引っかかる感覚にはなるんだけど、そこにはまだ辿り着かない。現時点ではっきりしてるのは、私の生活拠点は東京だということ、絵はずっと描きたいということ、そのために生活をしなければいけないということ、それだけ。

先週はまたひとつ歳をとってしまった。今日は料理中に指を切った。時が経つのは早い。

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07
4月 14

生活する

すっかりブログ更新もせず、最近はただ毎日を過ごしています。生活をする、と言ってしまえばなんてことないことだけど、毎日生活を送るだけでもなかなか億劫でもあります。生活、というものがただ起きて食べて労働して寝るだけのことなのか、人によってその感覚は違うのだろうけれど、最近の私は本当にただセイカツヲオクル日々です。ひとことで言えば、退屈です。退屈以外の生活の余白のような部分に費やす時間や労力やお金が少ないと、簡単にすぐにでも退屈はやって来ます。

そんな退屈な生活でも、食べることだけは少しだけ意識をしています。食べる事が好きなのです。ただの食いしん坊なのですが。私と食事をしたことがある人は気づいているだろうけど、私は毎日食事の写真に収めます。時々忘れてしまうこともあるけれど、食べるものの写真を撮る習慣はもう8年程続いています。それは匿名ブログへアップしています。もはやすごい量の食べたものの記録があります。完全に自分のためだけの記録なのだけど、食べたものの記憶でその頃の生活や気持ちが甦ります。

毎晩残業続きでくたびれている時代も、ラーメンにはまってやたらとラーメンを食べ歩いている頃も、誰かと会って楽しかった日も、喧嘩したり心が荒れてたことも、もう二度と会わないであろう人と食べたごはんも、食べたものの写真を見ると思い出してその記憶すべてを愛しく感じるから不思議です。そもそも思い出ってそういうものだけれど、私にとってはその日に自分が選んで食べるもの自体がその時の自分の状況を表している気がして、すごく愛しい気がするのです。そういう気持ちから毎日食べるものを写真に収めるようになったのです。

精神的に調子が悪い日は、何時間も食べるものを決められずにスーパーや飲食店やコンビニをふらふら彷徨う事があります。毎日食べたい気持ちや食べたいものがあって、そして食べ物が当然のように選べて手に入れられる生活があって、こういう当たり前の幸せを退屈という言葉で済ますのは本当は申し訳ないのだけど。この退屈に感じている生活も、いつか食べた物の写真を見返した時に思い出して愛おしくなる日が来るのね。


18
2月 14

自分の顔がきらい

何かがしばらく滞っていたり怠っていると、そこから動くのって継続している時よりもずっと大きな力が必要になったりやや長目の助走が必要になるもの。気持ちだけがいくらあっても腰が重い。このブログも書く時期は立て続けに考えている事を文章にまとめたくなるのに、間があくと必要性すら感じなくなる。
人との関係もそうで、ちょっと連絡を怠っていたり言いにくい事があると先延ばしにして面倒くさくなって、そのまま関係性まで自然消滅する場合もある。私はマメなのと物事ハッキリしたい方なので人(特に自分にとって大事な人)との関係はフェイドアウトさせることはないのだけど、それでも日々忙しいとそうもいかなくなるのは仕方ないような寂しいような。

なんて、色々と言っているけど何を言いたいのかというと、絵を描かずに数ヶ月経っている。働いたり生活が慌ただしくなると今までもこの程度は絵を描かない時期があったのだけど、それを防ぐためにも毎年個展をいれてきた。だけども今年は、個展もいれていない。

さてどうしよう。そろそろドカンと個展をやりたい気持ちがある一方で、近年八方塞がりの日常のせいなのか、ちょっと落ち着いて気になってる事をやってみようとも思っている。気になっている事、それは描写をすること。浪人時代は元々描写が好きでわりとモノを見て形を描いていたのだけど、それをしなくなってもうずいぶん経ってしまった。

私は自分の顔が好きではなかった。なんでこんな目なんだろう、鼻なんだろう、眉毛なんだろうって鏡をみるたびに思ってたけど、大人になるにつれ、慣れて自分の顔を受け入れるようになった。いまだに写真を撮られるのが嫌いでカメラを見る事もできない。
顔の特徴が薄いので人から覚えてもらいにくく、制服を着るバイトをしていると親しい人でさえ私服姿の私には気づかない。それでいて人と会うと誰かに似ていると言われる顔で、しょっちゅう誰々に似ていると言われる。写真と実物の印象も違うらしい。

つまるところ、つかみどころのない顔なのだろうと思う。頻繁に似ていると言われる女優さんがいるのだけど、全く似ていない!と言ってくる人もいる。たぶん、似ているという人による解釈の違いって、骨格で見る、表面的なパーツの形で見る、パーツの配置で見る、全体の雰囲気、服装や髪型から認識する、等の違いによるものだと思う。

つかみどころのない私の顔も、近年はすっかり「眼鏡+ショートカット」というアイコンによって、わりと人から認識されるようになった。記号化された私の顔は、その記号が無くなった時に何が残るのだろう?

自分の顔が嫌いなせいか、自画像が嫌いだった。自分の顔が全然自分でもつかめないのだ。描いても描いても、自分の顔が定まらない。自分の画風から考えたら描写とはいえそんなに似せる必要ないのだろうけど、つかみどころがないものを描くのはすごく気持ちが悪い。

それでも、最近久々に重い腰を上げて描こうと思ったのはなぜか自画像だった。たぶん、自分と向き合う時期なのだろうと思う。

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