トップページ > Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog

04
9月 15

折り合いをつける

基本は変わらないにしても、社会に出てから私自身はある意味すごく変わったと思う。30歳過ぎた頃からはずいぶん楽になっているような気がする。

生活していくことは「折り合いをつける」ということだと思ったりする。身の回りの同年代の女性なんかでなんとなく辛そうにみえる人はたいていそこがうまくいっていない。いやもちろん、私なんかよりも世の中的に成功してたり普通に働いてるような方々なのだけど、それでもなんだか苦しそうで、そういう人を見ながら自分と比較してみたりするわけだけど。

折り合いをつけることがうまくいかない人は苦しいだろうと思う。私もうまくいかないときや苦しい時はそこの部分で詰まってる。

無駄に自分を過信しすぎたり理想ばかり追ったり、他人や環境ばかりに不満を持ってばかりいると「折り合い」はなかなか付かない。じゃあ色々なことを諦めればいいのか?ということでもない。「折り合いをつける」ことを私は消極的な意味ではとらえてはいなくて、例えば妥協や残り物でガマン的なことではなくて、もっとずっと前向きな意味合いで考えている。

スルスルとうまく逃げたり長いものに巻かれて行くようなことではなくて(これもひとつの方法だけどね。)、ぶつかったり悩んで考えたり実際にやってみたりして前向きな妥協点を(見つけ出すというよりも)生み出すことだと思うのです。それは中和された地点に辿り着くことではなくて、そういった「折り合いをつける」作業で自分の良さや悪さと外的なものの要素が混ざって何か新しいものが生まれているのでは?と。

そういうことの繰り返しで螺旋状に上昇していっていくのが、真っ直ぐ上にポンと進むよりもいいなと思ったりしています。

最近友人のバンドが新譜を出した。バンドができたての頃から知っていて、失業中は関西ライブツアーにもついて行ったりもしたのだけど、彼らが公私共に色んな折り合いをつけることを繰り返して現状ここに今いるという感じがしてすごくいいアルバムだなと思いました。

■馬喰町バンド https://youtu.be/igTvCKrJSZY

21
7月 15

衝動とは違う

私は、通常に他人(ひと)がどうでもいいと思う様な正にどうでもいい感情を、そのつまらない感情をただ単に過剰な自己愛でなるべく大事にとっておきたいがためになんとなく言葉にして、その言葉という形にして残したいというような感情、つまりは結果ただの感情でしかないものを言葉に残しているだけなのだと思う。スッキリしたいだけ。言葉にするとスッキリするだけ。たいした意味は無い。それでもここのところ、その「たいした意味のない」作業すら出来なくなっていた、というかしなくなっていた、久しぶりのこのブログ。

決定的な何かがある訳ではなく、色々な細かい理由がたまたま溜まって積み重なると、たいていの事態は滞る。こういうどうってこない細かい積み重ねが、どんなことでも最終的に決定的な結果を招く。大きな事件よりも小さな積み重ね、それが1番こわい。

なんて言ったところで、このブログは仕事でも任務でも何もなく自分のためのものなので、決定的な結果なんてものはない。強いて言えば、このブログを中心に私を解釈していた人にとってはイキナリ途切れたこのブログに何か意味を見いだしたり、私の日常に心配をしたり、そういう程度のもの。

私の身辺で同年代でいまだ作品を作り続けている人というのは、だいたいが本気で「作品を作る生活を中心に生きて行きたい人」だったりはする。私のその気持ちが無いといえば完全に嘘だけど、私にとっては辛い日常が制作の大事な糧なので、そこを否定したり排除はできない。毎日の小さなクヨクヨや、美しい風景や小さな花が咲いたことなんかにいちいち感動しながらもその感動に比べればどうでもいい(と内心思いながらこなす)仕事が、というかその仕事も、嫌いじゃないし結局すごく大事なんだと思う。だから頑張る。

衝動で描いてる!みたいな発言したいけど、衝動が起きても明日の生活や仕事の事を考える自分が、そのリアルさがそれはそれで好きだと思う。そういうのを作家としては中途半端だと思われたり、衝動で描く事が大事だと思ったり、制作よりも仕事に向かうことが作家にとってヤル気が無いと見なされたり、それはそれでいいとも思う。でも私は、どういうスタンスであれ絶対に一生制作活動は続けるし、学生時代に学内展示の時に顔見知り程度の人が「あなたは一生描いていてください」みたいなもしかすると軽い気持ちで書いたコメントを時折思い出してはふんばるような案外素直な、でも、すごく捻くれて片寄った人間です。

で、久々のこのブログでナニを言いたいかというと、私は相変わらず(人一倍捻くれてるし、絵は絶対一生続けるし、仕事も頑張ってるし)元気ですということ。

梅雨は明けたけど毎日暑くて嫌だね。


17
10月 14

真夜中過ぎのタイムライン

私はネットが好きだしSNSも日常的に利用している。ネットが苦手だとか批判している人の言い分もわからないわけではないけれど、そういうのって一周回って逆にネット依存の人と同じような拘りを感じることもある。確かに時々SNSの無責任な情報や発言に溺れそうになるような煩わしさもあるんだけど、使い方によって便利なのは確かだし、なければないで生きていけるし、どちらでもいい。
対人に関してはネットと実物の印象が違うということはあれど、コミュニケーションとしての通じやすさや通じにくさは実際会っている時と基本は変わらない気がする。実際に会っててコミュニケーション取りにくい人はネットでも噛み合わなかったり、ネットで一方的な人は会ってもそういう節がある。
私には思考を言語化して出すという作業が日常的に必要なので、一方的に言葉を出せるTwitterはけっこう好きなのだけれど、相手の反応が欲しい人には一喜一憂して心地悪さもあるのかも。

真夜中になると、ネット上ですら過疎になる。そんな時間帯の赤裸々な呟きは、車も人もいない道路の真ん中で大声で叫んでるような気分に近い。こんな時間だし、どうせ誰も聞いていやしないと思うと、王様の耳はロバの耳!みたいなもんでいつも以上に変な呟きを発してしまう。
私は夜型なので、自分と同じように真夜中過ぎのネット過疎タイムに頻繁に呟く人を見つけると安心する。
ネットとはいえそれなりに人間性が出ているもので、知らない人にもだんだん感情移入したり、知人のような気持ちになって眺めてしまう。

そんな真夜中過ぎにTwitter上で頻繁に見かける、知人ではないけれど知人のような感覚で眺めていた人。先日、その人が亡くなったことを知った。勿論Twitter上で知らされた。
最後の呟きが最高にくだらないのが、その人らしかった。そしてその1つ前には、体調が良くないことの呟き。遡って読んでみると頻繁に体調の悪さや夜中遅くまで仕事をしていることが今更だけどよくわかる。
そして彼の亡くなった情報が流れた日は、親しいと思われる知人が彼の呟きで彼らしさのある呟きを拾ってリツイートしていた。もう存在しない人のはずが、一日中タイムラインにポツポツ現れるのですごく不思議な気分になった。
ある日を境にそのまま動かなくなるタイムラインと、今はいないはずの人の気配。Twitterを始めてから、時々こういう形で知らない人の死を知らされることが増えた。

20141017-151904.jpg


07
10月 14

いつも救ってくれてありがとう

私にとっての制作は、どんどん溜まるモヤモヤの消化不良を起こさないためで、社会的な何かとか美術史的な要素は実はあまり気にしていない。制作活動をするにあたってそういう要素が大事なのは知っているけど、自分にとっての制作は、細かいことに一喜一憂し、くだらないことにいちいち憂鬱になり、人一倍捻くれて歪んだ自分がこの社会に適合するためのリハビリみたいなものなので仕方がない。
絵を描いていれば、そういう自分の面倒な部分を愛することもできるし、鈍感にヘラヘラ楽しそうに生きてる人たちよりもよっぽど幸せだと思えたりもする。
今年は全然制作ができていなくて、時々消化不良を起こして鬱屈とする瞬間が増えている。そういう時はとにかく眠るに限る。昔みたいにお酒に逃げる事もなくなって睡眠で解消できるなんてずいぶん健康だなとも思うけど、大人になってどんどん鈍くなってるのかなあとも思う。

最近バイト先が異動になって環境が変わった。どこでも、いいところもあれば嫌なこともある。今の勤務先は嫌な意味の孤独感を感じる時間が増えた。前のお店では色々あっても周りに親切な人がいて、実はすごく助けられてたと思う。嫌な事があっても隣のお店の人が愚痴を聞いてくれて、愚痴を聞いてくれた後にたいてい凹んでる私にお菓子をくれた。普段あまり甘いものを食べない私も、そういう時のお菓子の甘さはくさくさした心を救ってくれた。本人はたいしたことではないと思っている事でも、他人にとってはすごい救いになったりする事もある。そういう時の救われた気持ちを、他の人や違う形でも返していきたいものだけど、自分のことで精一杯な私にはなかなかできない。

今は職場で辛くなると、自分のために自分で甘いものを買ってから休憩室へ向かっている。

20141007-124842.jpg

↑ネットでの拾いものナノダ。


08
9月 14

この瞬間は続くと!

大人になって経験値が増えてきて、イイ事もいっぱいあるけど、希望を持つことを最初から放棄したりやたらと現実的になってしまうのは寂しいことだと思う時もある。
私は(というか誰でもそうなのかもしれないけれど)しつこいぐらいの人間不信な部分があって、自分でもそれが面倒臭くもなるし、それによって自分で自分を苦しめてるのも知っている。それでも、ただ無邪気に能天気に信じるということに抵抗はある。
だけどもそんな私でも信じようと思う人(コト)は勿論あるわけで、結局は信じるとか信じないじゃなくて、信じたいと思える相手かどうか、そこが一番大事なことなんじゃないかと思っている。
永遠なんてないとかわかっていても、この瞬間が続くと信じたかったり、その瞬間の真実は私の中で永遠に真実ならば、それでいいんじゃないかと思う。

◉2010年展示のテキスト

高校時代、帰り道、夕方から夜に変ろうとする蒼い時間。
薄明かりの中で自転車を止めて、1人でスプリンクラーを眺めるのが好きだった。
パルプ工場、整然と積まれて並ぶ木材の頂点で、それはボンヤリまわっている。
シュウイッ、シュウイッと、鋭いのにまどろっこしい音と、
割と正確な弧を描いて飛び散る細い水は、
頰の同じ道筋をひたすらに流れ続ける涙みたいで、
私は、その泣いている姿を影からひっそりのぞいているような気がしてきて、
なんとなく眼が離せなかった。
そんな特別な光景は、瞬間に切り取られ、すぐさま色をつけていく。
それからトンッと一瞬だけ静止して、たらたらと溶け出し、
どこか次の光景にむかうのだと思う。
あんなに好きだったものを忘れてしまう時が来るように、
仕方なく、でも確実に行われる作業のようなものなのだと思う。
その秘密の仕組みに、私は気づいている。

20140908-125058.jpg

このページのTOPへ