トップページ > Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog

18
5月 16

さいきん近頃もろもろ徒然

長らく書かずにおりました。
私は相変らず。書かず(描かず)にも生きていけるのだからしかたがない。

ためておいてもしょうがないので、最近の(思った)ことなどサックリ書いてみようかと。
【交差点について(引っ越しのことと。)】「交差点は哲学だ」と、大学の授業で教授が言ったのを時々思い出す。授業を必要単位以上に受けていたけど、進んで聞きにいきたい授業はほとんどなくて、それは数少ない好きな授業のひとつだった。いつものことながら言葉の印象は覚えているのに内容なんか忘れてる私。なんで交差点が哲学だったのか。

最近10数年ぶりに引っ越しをした。徒歩1分以内の近所で、交差点のあっち3件目からこっち2件目の物件へ近距離引越し。交差点を渡っただけで色々な事が変わる。1分程度のはずなのに駅がぐっと近づいた(気がする)。狭い部屋での暮らしが当然だったけど、少し広くなっただけで驚くほど日常がスムーズになった。アトリエを借りられない時期(むしろほとんどそう)はその狭いワンルームの中で制作をしていたけど、もちろん制作スペースも確保した。多少の無理をしていてもそれに気づかなければそれは「普通」であって、私の場合はいつも環境が変わってからやっとそれまで少し無理をしていたことに気づくのだ。環境って大事ですねという話し。

ちなみにこの交差点、私が引っ越してきた頃はまだずっと交差点になりそうなまま放置されていた工事途中の道路だったのが、この数年で川向こうへ向かう大きな橋に繋がる交差点になった。同じ道のはずなのに、交差点が出来上がってからの方が、月がきれいに見える(気がする)。

【反・断捨離(引っ越しのことの続きでもある。)】さて、10数年ぶりの引っ越しとなると、荷物の整理がそれはもう大変で。そういう話しをすると「自分がいかに無駄なものばかり溜めて暮らしていたかがわかるよね」なんてことを意味深げに言われたりする訳だけど、近年の断捨離ブームが嫌だな、とひねくれ者の私は片付けているうちに徐々に思い始めたわけです。

無駄なものも勿論あるけど、無用だけど自分がとっておきたかった(筈の)モノを捨てていくことって寂しいよ。本当に用途があって必要なものばかりあれば満たされるのだろうかと。で、気づいたら、なるべく捨てない方へとシフトしていました。いつか誰かに「これこれ見て見て」と、自分でも何故かわからず集めてしまったどうでもいい(けどとっておきたかった)モノたちを見せる時が来るかもしれないし、自分でも忘れた過去の自分の執着に再会するのもいいし。スタイリッシュでモノの少ない部屋をお披露目するのもいいのだろうけどね〜

 

そんな感じで私はやっぱり元気です!
今年は、11月に久しぶりの個展を予定しています。


19
9月 15

いつまでも、ワタシ

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先週、NYのアートフェアAffordable Art Fair に2点作品を出しました。今回はお金と時間の関係で現地にいけなかったのが残念。
http://affordableartfair.com/newyork/

昨年末からずっと仕事で制作活動から遠のいていたので、
これを機に描く生活が始まって久しぶりだったせいか清々しく描けました。
しばらく描かないと腕はすぐに落ちるなんてよく言いますが、私の場合は写実の描写ではないので腕が落ちると言うより勘を取り戻すのに時間がかかるという感じはあります。それでも久しぶりの新鮮さと離れていた分の距離感が生み出す冷静さとがあって、久しぶりに描いた作品のモタツキが私はけっこう好きだったりします。

最近ふと『いつまでも、鰐』という絵本のことを思い出しました。素敵な表紙にジャケ買いした絵本ですが、内容がわりとすごい。(ここからネタバレ。絵本でネタバレに気にする人いないかな?)それでも私の中ではしばらく経っているせいで内容が記憶違いになってしまっていて、蛸は、自ら鰐に足を捧げていたことになっていました。恐らくは蛸の健気さが「奉仕」という方向へ間違えた記憶になっていたのだと思うけど。。
淡淡とした内容の中に何か教訓を探そうとはするものの、そこにあるのは事実のみ。酷いことしているのだろうけど鰐は別に悪くない気もしちゃうし、全部仕方ないけど切なくもないし、それでも蛸はさいごまで幸せだったのかもと思ってしまう。

いつまでも鰐でい続ける鰐はそれで幸せなのか?と考えちゃうけど、たぶんこの鰐にとってはそんなこともどうでもいいのだろうな。


04
9月 15

折り合いをつける

基本は変わらないにしても、社会に出てから私自身はある意味すごく変わったと思う。30歳過ぎた頃からはずいぶん楽になっているような気がする。

生活していくことは「折り合いをつける」ということだと思ったりする。身の回りの同年代の女性なんかでなんとなく辛そうにみえる人はたいていそこがうまくいっていない。いやもちろん、私なんかよりも世の中的に成功してたり普通に働いてるような方々なのだけど、それでもなんだか苦しそうで、そういう人を見ながら自分と比較してみたりするわけだけど。

折り合いをつけることがうまくいかない人は苦しいだろうと思う。私もうまくいかないときや苦しい時はそこの部分で詰まってる。

無駄に自分を過信しすぎたり理想ばかり追ったり、他人や環境ばかりに不満を持ってばかりいると「折り合い」はなかなか付かない。じゃあ色々なことを諦めればいいのか?ということでもない。「折り合いをつける」ことを私は消極的な意味ではとらえてはいなくて、例えば妥協や残り物でガマン的なことではなくて、もっとずっと前向きな意味合いで考えている。

スルスルとうまく逃げたり長いものに巻かれて行くようなことではなくて(これもひとつの方法だけどね。)、ぶつかったり悩んで考えたり実際にやってみたりして前向きな妥協点を(見つけ出すというよりも)生み出すことだと思うのです。それは中和された地点に辿り着くことではなくて、そういった「折り合いをつける」作業で自分の良さや悪さと外的なものの要素が混ざって何か新しいものが生まれているのでは?と。

そういうことの繰り返しで螺旋状に上昇していっていくのが、真っ直ぐ上にポンと進むよりもいいなと思ったりしています。

最近友人のバンドが新譜を出した。バンドができたての頃から知っていて、失業中は関西ライブツアーにもついて行ったりもしたのだけど、彼らが公私共に色んな折り合いをつけることを繰り返して現状ここに今いるという感じがしてすごくいいアルバムだなと思いました。

■馬喰町バンド https://youtu.be/igTvCKrJSZY

21
7月 15

衝動とは違う

私は、通常に他人(ひと)がどうでもいいと思う様な正にどうでもいい感情を、そのつまらない感情をただ単に過剰な自己愛でなるべく大事にとっておきたいがためになんとなく言葉にして、その言葉という形にして残したいというような感情、つまりは結果ただの感情でしかないものを言葉に残しているだけなのだと思う。スッキリしたいだけ。言葉にするとスッキリするだけ。たいした意味は無い。それでもここのところ、その「たいした意味のない」作業すら出来なくなっていた、というかしなくなっていた、久しぶりのこのブログ。

決定的な何かがある訳ではなく、色々な細かい理由がたまたま溜まって積み重なると、たいていの事態は滞る。こういうどうってこない細かい積み重ねが、どんなことでも最終的に決定的な結果を招く。大きな事件よりも小さな積み重ね、それが1番こわい。

なんて言ったところで、このブログは仕事でも任務でも何もなく自分のためのものなので、決定的な結果なんてものはない。強いて言えば、このブログを中心に私を解釈していた人にとってはイキナリ途切れたこのブログに何か意味を見いだしたり、私の日常に心配をしたり、そういう程度のもの。

私の身辺で同年代でいまだ作品を作り続けている人というのは、だいたいが本気で「作品を作る生活を中心に生きて行きたい人」だったりはする。私のその気持ちが無いといえば完全に嘘だけど、私にとっては辛い日常が制作の大事な糧なので、そこを否定したり排除はできない。毎日の小さなクヨクヨや、美しい風景や小さな花が咲いたことなんかにいちいち感動しながらもその感動に比べればどうでもいい(と内心思いながらこなす)仕事が、というかその仕事も、嫌いじゃないし結局すごく大事なんだと思う。だから頑張る。

衝動で描いてる!みたいな発言したいけど、衝動が起きても明日の生活や仕事の事を考える自分が、そのリアルさがそれはそれで好きだと思う。そういうのを作家としては中途半端だと思われたり、衝動で描く事が大事だと思ったり、制作よりも仕事に向かうことが作家にとってヤル気が無いと見なされたり、それはそれでいいとも思う。でも私は、どういうスタンスであれ絶対に一生制作活動は続けるし、学生時代に学内展示の時に顔見知り程度の人が「あなたは一生描いていてください」みたいなもしかすると軽い気持ちで書いたコメントを時折思い出してはふんばるような案外素直な、でも、すごく捻くれて片寄った人間です。

で、久々のこのブログでナニを言いたいかというと、私は相変わらず(人一倍捻くれてるし、絵は絶対一生続けるし、仕事も頑張ってるし)元気ですということ。

梅雨は明けたけど毎日暑くて嫌だね。


17
10月 14

真夜中過ぎのタイムライン

私はネットが好きだしSNSも日常的に利用している。ネットが苦手だとか批判している人の言い分もわからないわけではないけれど、そういうのって一周回って逆にネット依存の人と同じような拘りを感じることもある。確かに時々SNSの無責任な情報や発言に溺れそうになるような煩わしさもあるんだけど、使い方によって便利なのは確かだし、なければないで生きていけるし、どちらでもいい。
対人に関してはネットと実物の印象が違うということはあれど、コミュニケーションとしての通じやすさや通じにくさは実際会っている時と基本は変わらない気がする。実際に会っててコミュニケーション取りにくい人はネットでも噛み合わなかったり、ネットで一方的な人は会ってもそういう節がある。
私には思考を言語化して出すという作業が日常的に必要なので、一方的に言葉を出せるTwitterはけっこう好きなのだけれど、相手の反応が欲しい人には一喜一憂して心地悪さもあるのかも。

真夜中になると、ネット上ですら過疎になる。そんな時間帯の赤裸々な呟きは、車も人もいない道路の真ん中で大声で叫んでるような気分に近い。こんな時間だし、どうせ誰も聞いていやしないと思うと、王様の耳はロバの耳!みたいなもんでいつも以上に変な呟きを発してしまう。
私は夜型なので、自分と同じように真夜中過ぎのネット過疎タイムに頻繁に呟く人を見つけると安心する。
ネットとはいえそれなりに人間性が出ているもので、知らない人にもだんだん感情移入したり、知人のような気持ちになって眺めてしまう。

そんな真夜中過ぎにTwitter上で頻繁に見かける、知人ではないけれど知人のような感覚で眺めていた人。先日、その人が亡くなったことを知った。勿論Twitter上で知らされた。
最後の呟きが最高にくだらないのが、その人らしかった。そしてその1つ前には、体調が良くないことの呟き。遡って読んでみると頻繁に体調の悪さや夜中遅くまで仕事をしていることが今更だけどよくわかる。
そして彼の亡くなった情報が流れた日は、親しいと思われる知人が彼の呟きで彼らしさのある呟きを拾ってリツイートしていた。もう存在しない人のはずが、一日中タイムラインにポツポツ現れるのですごく不思議な気分になった。
ある日を境にそのまま動かなくなるタイムラインと、今はいないはずの人の気配。Twitterを始めてから、時々こういう形で知らない人の死を知らされることが増えた。

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