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17
3月 17

今の自分と、個展と、オザケン的なもの

私は自分のことをよくわかっている、つもりでいる。近しい他人より、よっぽど他人目線で自分を見ている、ぐらいに思い込んでいる。だけれど人から言われる「あなたって○○なタイプだよね」の中には、やはり自分の見る自分や近しい他人に言われる私とかけはなれているものも時々あり、その内容にというよりも他人にわかってもらえていないことに落胆したりする。当たり前なんだけどね。

最近オザケンが新譜を出してイキナリのことにテレビやネットでざわざわしていた。私はオザケン信者のようにそこまでは彼への強い思いはないのだけど、それでもオザケンが新譜を出したならばそりゃあ気になる世代なのだ。

なんの先入観もなく聴いてみての印象は「相変らずオザケン元気そうでなにより」みたいな感じ。幼なじみのような、親戚のおばちゃんのような、一緒に音楽やってた仲間のようなこの感覚、なんだかわからないけど、とにかく元気そうでなにより、というこれにつきた。

そして、借してもらった人にそれを伝えようとしたら、全く同じことを先に言われてしまった。私だけじゃないこのオザケンへの気持ち、オザケン的なこれってなんだろう?

久しぶりの人に会って、お互い状況も年代も以前と変わってしまっている(はずな)のに、確かに顔にはシワのようなものできて、全体に当時のとがったものやきらきら輝いていた無邪気さが減っていたとしても、あーなんか相変らず元気そうでなによりと言われるあの感じ、あれっていい。
決して成長していないとか、退化してるということではなくて、逆に大人になってガラッと変わってしまったりではなくて、大事にしている芯はそのままに(本人が意識してようがしてまいが)だけど年相応に進んでいるのだよ歳を重ねることを。進むことも留まることにも無理が無い、素直さというか。

オザケン的なそれは、たぶんそんな素直さと、だけどその素直さが平坦な単純さではなく積み重ねてきた確信のような位置のあるものなのかもなぁと。

 

さてさてこの長い長い前置き。

昨年末に久しぶりに個展をしました。ずっと毎年続けていたのに、震災の頃から生活というか意識が変わり昨年までの間にもちょこちょこ個展やアートフェアなどやってはいたけどなんとなくそわそわしていて、さてまたいつも通りの個展をやるか〜という意識で重い腰をあげた感じはこの昨年末の個展が久しぶりだったような気がします。
私の中では変化もあるし、今までにない試みもあったけど、今まで展示を見てきてくれた人があれをみて「久しぶりだけど相変らず元気そうじゃん」ってちょっとニヤニヤしながら見てくれてたらそれがいちばん満足かなって。

年末年始の仕事の忙しさとその後の確定申告などで気づいたら3月なかば。文字にして書きたいことはいつもいっぱいあって、個展のこともっと具体的に書きたかったのに時間がたってしまったのでこんな感じで個展納め。

仕事もう少し落ち着いたら、今年はやりたいこといくつかあるのでぼちぼち作っていこ。
5月のグループ展と10月のグループ展に向けてゆるく描いていこー。


16
11月 16

久しぶりに個展です

毎日忙しい。もう11月とは!

さて久しぶりに個展です。
しばらく毎年個展をしていたギャラリーなのですが、ずいぶん間があいてしまいました。

http://naoko-nojima.com/blog/info/2016/11/16/個展のご案内/

やみくもに毎年展示するぞ!とやっていた頃も全く無駄ではなかったけど、
間をあけるのも悪くない。
続きであり新しくもある、という意識が
保守的でモタつく私を今回は少しだけ軽くしてくれたような気もします。

今回の隠れたテーマは
ナニかに「覆われてる」ナニかが「かぶってる」穴みたいなものが「ふさがれてる」という感じです。
言葉で書くとちょっと後ろ向きな印象ですが、実際は以前よりも諸々が楽になった結果なので前向きなふさがれ方なのです。
簡単に言うならば、傷がふさがってきたというのに近いのかも。
あとは、いつも所在が曖昧だった作品タイトル(言葉)の見せ方を変えてみました。

曲者である自分のその部分がより出ているのは実はタイトルで(でもそのタイトルは勿論作品ありきなわけで)
今まではその曲者部分をぼそぼそ呟いてるところ止まりだったところから、少しだけ表に主張してみようと思いました。
それが作品の邪魔をする可能性もあるけど、それ含めて今回はやってみました。

仕事が忙しいせいもあり、久しぶりにすっごく気力使ったなーという実感。
個展はいつも(音楽でいうなら)アルバムを作っている感覚に似てるのではと思っている。(音楽作ってないからわかんないけど。)
短い期間ですがよろしくおねがいします!


31
8月 16

どこにいるのか、ピンとこない。

初対面の人と絵を描いてるという話しになった時に、どんな絵ですか?と聞かれると答えに困る。これはラーメンが好きと言った時に、どこのお店がオススメ?と聞いてくる人とも似ている。というのも、相手が自分と同じぐらいか、それ以上にラーメンが好きなら話しは早いのだけど、恐らく自分よりはこの件に関して疎いだろう相手に、自分の好きな方向性をどう説明すれば伝わるのかを迷ってしまう。一般受けする説明というか、この件にあまり興味がなく知識も少ないであろう相手に、ニュアンスの大事な部分を説明をするのは難しい。

話しを絵に戻すと、だいたい普通の人は絵なんか興味がない。美術系の知人以外で美術館に行くのが好きな人はあまり見かけないし、ギャラリー巡りをするような人なんかなおさら。そんなことおかまいなしに、自分はアーティストよ!って勢いでもりもり自分の作風やコンセプトとか、知らない人には凄い芸術家みたいに勘違いしてもらえるかっこよさげな展示歴とか、ぺらぺらと喋れる性格ならいいのだけどね。

私の場合、さて、この人にとって、世の中の一般的な人たちにとって、私の立ち位置はどこなのか。と、まずはそこでつまずく。

例えば「絵描きです」なんて言おうものなら「絵で食べてるの?」という直球を投げてくる人がいる。なかには「食ってけてないならプロじゃない論」を始める人もいる。はいはいわかっていますよと思うけれど、生活の諸々を犠牲にしながら絵を描いたり、発表活動を続けているのも事実。そこには「趣味」という意識はない。

1番迷うのが作風の説明で、恐らくは「パッと見わかりにくい感じの絵です」というのが1番わかりやすい。(という矛盾。)

「抽象」「具象」という分け方があるけれど、これも今や複雑になっている。私の大学時代は、具象抽象以外にも、半具象、半抽象、非具象とかなんとか屁理屈のような名称でクラス分けされていた。今の美大はどうなっているのかわからないけど、私は当時その感じが理屈っぽいというか屁理屈っぽくて違和感を持っていた。
ちなみに私は、あまり興味のなさそうな人に答える場合は自分の作風は「抽象っぽい」と答えているし、やや美術好きそうな人には「半抽象というか半具象というか」と答えている。自分の中では、ほぼ具象。

私が作品を描き出す前のエスキースは、ほとんどが文字で、残りはだいたい写真。所謂ドローイングはメモ程度に2割程度。言葉だから具象的かというと、実は自分で後から読んでもよくわからない部分もある程に抽象的な言葉の羅列の時もある。設計図の行程のような文字群ではなくて、感情や光景や擬音や、イメージに近い形のものの名称など、ずらずら書き留めてある。この言葉は具象的なのか抽象的なのか?

それでも最近、本当にごくごく最近になって、自分は具象だとハッキリ自覚するようになった。自称絵描きで、抽象ぽいもの描いてて、絵で食べていけていない、そんなぱっとしないポジションを、立ち位置がはっきりしないと思わなくもなってきた。
絵で食べてけないのに絵を続けている絵描きだし、抽象だと思われがちだけど写真見ながら在るものを描いている。


18
5月 16

さいきん近頃もろもろ徒然

長らく書かずにおりました。
私は相変らず。書かず(描かず)にも生きていけるのだからしかたがない。

ためておいてもしょうがないので、最近の(思った)ことなどサックリ書いてみようかと。
【交差点について(引っ越しのことと。)】「交差点は哲学だ」と、大学の授業で教授が言ったのを時々思い出す。授業を必要単位以上に受けていたけど、進んで聞きにいきたい授業はほとんどなくて、それは数少ない好きな授業のひとつだった。いつものことながら言葉の印象は覚えているのに内容なんか忘れてる私。なんで交差点が哲学だったのか。

最近10数年ぶりに引っ越しをした。徒歩1分以内の近所で、交差点のあっち3件目からこっち2件目の物件へ近距離引越し。交差点を渡っただけで色々な事が変わる。1分程度のはずなのに駅がぐっと近づいた(気がする)。狭い部屋での暮らしが当然だったけど、少し広くなっただけで驚くほど日常がスムーズになった。アトリエを借りられない時期(むしろほとんどそう)はその狭いワンルームの中で制作をしていたけど、もちろん制作スペースも確保した。多少の無理をしていてもそれに気づかなければそれは「普通」であって、私の場合はいつも環境が変わってからやっとそれまで少し無理をしていたことに気づくのだ。環境って大事ですねという話し。

ちなみにこの交差点、私が引っ越してきた頃はまだずっと交差点になりそうなまま放置されていた工事途中の道路だったのが、この数年で川向こうへ向かう大きな橋に繋がる交差点になった。同じ道のはずなのに、交差点が出来上がってからの方が、月がきれいに見える(気がする)。

【反・断捨離(引っ越しのことの続きでもある。)】さて、10数年ぶりの引っ越しとなると、荷物の整理がそれはもう大変で。そういう話しをすると「自分がいかに無駄なものばかり溜めて暮らしていたかがわかるよね」なんてことを意味深げに言われたりする訳だけど、近年の断捨離ブームが嫌だな、とひねくれ者の私は片付けているうちに徐々に思い始めたわけです。

無駄なものも勿論あるけど、無用だけど自分がとっておきたかった(筈の)モノを捨てていくことって寂しいよ。本当に用途があって必要なものばかりあれば満たされるのだろうかと。で、気づいたら、なるべく捨てない方へとシフトしていました。いつか誰かに「これこれ見て見て」と、自分でも何故かわからず集めてしまったどうでもいい(けどとっておきたかった)モノたちを見せる時が来るかもしれないし、自分でも忘れた過去の自分の執着に再会するのもいいし。スタイリッシュでモノの少ない部屋をお披露目するのもいいのだろうけどね〜

 

そんな感じで私はやっぱり元気です!
今年は、11月に久しぶりの個展を予定しています。


19
9月 15

いつまでも、ワタシ

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先週、NYのアートフェアAffordable Art Fair に2点作品を出しました。今回はお金と時間の関係で現地にいけなかったのが残念。
http://affordableartfair.com/newyork/

昨年末からずっと仕事で制作活動から遠のいていたので、
これを機に描く生活が始まって久しぶりだったせいか清々しく描けました。
しばらく描かないと腕はすぐに落ちるなんてよく言いますが、私の場合は写実の描写ではないので腕が落ちると言うより勘を取り戻すのに時間がかかるという感じはあります。それでも久しぶりの新鮮さと離れていた分の距離感が生み出す冷静さとがあって、久しぶりに描いた作品のモタツキが私はけっこう好きだったりします。

最近ふと『いつまでも、鰐』という絵本のことを思い出しました。素敵な表紙にジャケ買いした絵本ですが、内容がわりとすごい。(ここからネタバレ。絵本でネタバレに気にする人いないかな?)それでも私の中ではしばらく経っているせいで内容が記憶違いになってしまっていて、蛸は、自ら鰐に足を捧げていたことになっていました。恐らくは蛸の健気さが「奉仕」という方向へ間違えた記憶になっていたのだと思うけど。。
淡淡とした内容の中に何か教訓を探そうとはするものの、そこにあるのは事実のみ。酷いことしているのだろうけど鰐は別に悪くない気もしちゃうし、全部仕方ないけど切なくもないし、それでも蛸はさいごまで幸せだったのかもと思ってしまう。

いつまでも鰐でい続ける鰐はそれで幸せなのか?と考えちゃうけど、たぶんこの鰐にとってはそんなこともどうでもいいのだろうな。

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