Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog > 制作メモ

制作メモ


9
6月 18

続け方いろいろ

大学を卒業してから年数が経って、周りを見ても自分もだけどそろそろ1周回って落ち着いたみたいな感じがある。
制作活動は色々な続け方があるけど、教授や先輩たちが必ず言うのは「続けることが大事」で、自分もそれだけをなんとか粘ってやってきた。だけど、闇雲に無理して体力と精神力を頼りにしても、自分が若い頃に思っていた程の成果は自分で実感を得ていないのがほんとのところ。

私はこの先も続けるのだろうけど、続け方が下手だと思う。結局仕事も生活も制作も全部が大事で全部が中途半端というか形になっていないというか、全てに納得いっていないけどそんなものなのかな。

いまだに続けている同級生達の、それぞれのやり方がいいなぁと思うこの頃。評価をされて表舞台で続けられる人のことはさておき、自分含めそれ以外のポジションで続ける人たちの作品がリアルだなとこの頃は思う。たいていはブランクがあったりするし作風も『現代の現代アートな作風』でないところもいい。
なんだかんだ言って絵を描きたい、そういう本来の姿に戻ってきているような気がする。

もちろん評価されている人を否定しているのではなくて、そこから解放された人たちのリアルみたいなとこ。例えば、油絵科だからと油絵具に縛られて窮屈に感じていた同級生たちが油絵具への執着がなくなっていたり個展などの発表活動や売り込みとは無関係に描き出したり。鉛筆などのモノクロ単色で人の顔を写実で描き始めたとか、サラリーマンしながら水彩でイラストを描き溜めているとか、久々に絵を描きたくなって今更(芸大出てるのに!)絵画教室を探してるとか、現代アートの「今」にいる人たちのアートな説明よりも、そういう人たちの今思っていることや今の作品の方が興味深い。私はといえばどちらでもない中間辺りにいて、結局いつも中途半端な立ち位置だけど。

学生時代にライブを見てから好きだったミュージシャンが活動をしなくなってずいぶんたってもう辞めたのかと思っていたら、今年15年ぶりに突然アルバムを出した。
それがまたとっても良くて、しがみついて惰性で続けたり表舞台にいるだけが続け方じゃないなと思ったりもして。
自分の続け方を見直す時期だなと思いながら、最近は久しぶりに自画像を描いたり夜な夜な刺し子をしている。

 


7
2月 18

ほんのちょっとの

おかしみ、

という言葉が近いかな、と思う。
私がこの言葉にピンときたのは、器の作家さんの展示等を企画している方のお話の中で
器の中にクスっとくるようなちょっとした『おかしみ』が感じると更に良い作品だと感じるというようなことだったと思う。

ユーモア、というものを履き違えている人はたまにいる。ブラックユーモアに置いてはもっと顕著だ。
ブラックユーモアには根本に愛のようなもの、もしくはほんのちょっとの救いがある。
ただの批判を毒舌だとかブラックユーモアだとかいうのは、なんだか違うなあと。

そこに、愛はあるのか、ということ!

ユーモアは、ガハハキャッキャとはしゃぐ無邪気なものとは少し違って、正に おかしみ、だと思う。
ほんのちょっと滑稽だったり、情けなかったり、くだらなかったり、必死だったり、皮肉を含んだり、そういう要素がちょっとだけ入っているんだけど、でもなんだか笑えるんだよなぁ、ってそういうこと。(だからユーモアには愛がある。)

優しさや思いやりもそうなんだけど。
ほんのちょっとのそれが感じられた時ほど、真の気持ちなのではないかと信じたくなるから。

映画でも、残酷な結末が嫌いだ。とはいえ、根本が暗い人間なので暗いストーリーは好きなのだけど、暗いとか厳しいだけの現実を描いていても、ちょっとだけでいいから希望を感じさせて欲しい。最後にきらっと光が差し込む美しい風景が、一瞬写るだけでもいい。逆に幸せなストーリーにほんのちょっとの毒があるとグッと来る。
ただただ残酷、ひたすら不運、なんとなく幸せになりそうにない雰囲気、そんなもんだけで物語を完結して満足しているのは、エゴかじゃないのかなんて思うし、そういう残酷さ全開なストーリーに簡単に泣けるのは、きっと幸せな人なのだろう。

学生時代の当初は作品を褒められる時にキレイだとか詩的だとか言われる事があったのだけど、そういう言葉をかけられると捻くれた私はそこにちょっとの毒を加えたくなる。そうして僅かな毒を盛っているうちに気づいたら、そのちょっとの毒が、画面全体に広がっていた。
以前作品について書いていただいたテキストの中に、一見鮮やかできれいな色なのに毒を持った虫のような作品だという記述があり、私自身もしっくりきた。

実際に私が一見もったりゆったりして見えるのに、毒のカタマリなのです。
だけど、其処(底)にほんのちょっとの救いやユーモアを持っているつもりだし、こんなに皮肉っぽく生きてるつもりなのに実際は間が抜けた事態に巻き込まれやすく気づいたらなかなか滑稽な人生でもあり、そのほんのちょっとのニュアンスが作品の中に(重みにだけ片寄らずに)もうちょっとだけ出てくれれば 気楽なのになぁと、思う訳です。


13
5月 17

色のはなし

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色の話、というのは難しいと思っている。

過去に参加をしたグループ展の中で外の参加作家がやたらと色の意味を説明しているのが気になったことがある。
〇〇色はこんな気持ちや世界観を表している、というようなことを説明していた。
個人的な印象で色を説明するとどうしても安易に感じてしまう。

私は自分で「色の作家」だと思っていた時期がある。
かなり若い頃で、学生時代から色使いに対する評価を受けることが多かったからなのだけど、
色を選ぶときの一番のポイントは絵の具の素材感だ。

もちろん好きな色はある。ピンクと紫、作品で頻繁に使うターコイズブルーなど。
気づいたら身近に同じ色ばかり集まっていて、家はだいたいポップなピンクのものが多い。

作品に使う色は、
重ねたときの質感、透明感、絵の具自体の物質的な重さ硬さ、にじみ、そういう体感的な要素でしっくりくるものを選んでいる。

先日ピンクについて考える機会が与えられたのだけど
私のとってのピンクは女の子的でもなくぼんやりした位置にある。
作品の中では抜けの部分に使う。
使用している絵の具が垂れたりにじませたときが最もきれいな絵の具だから必然的に薄く使うことになり、結果的に抜けになる。
特に温かみも冷たさも感じない温度を感じさせない色だから余計な情報が少なくて抜けに使いやすいと思っている。

絵の具をキャンバスにおく瞬間の気持ちよさは、絵の具の質感、しみこみ、物質感や抵抗感で、色の気持ちよさは、塗り終えたところからじわっと感じられる。

こんな私でも高校生ぐらいまでは、全身黒などモノトーンの色ばかり身に着けていた。
描く絵もくすんだグレートーンの作風だった。
「南は色で、北は形」といいたことがあるけど、そのころ妙に納得したのを覚えている。

私はいつから今の色になったのか、今の色がほんとの自分なのかまだいまいちわからない。

 


17
3月 17

今の自分と、個展と、オザケン的なもの

私は自分のことをよくわかっている、つもりでいる。近しい他人より、よっぽど他人目線で自分を見ている、ぐらいに思い込んでいる。だけれど人から言われる「あなたって○○なタイプだよね」の中には、やはり自分の見る自分や近しい他人に言われる私とかけはなれているものも時々あり、その内容にというよりも他人にわかってもらえていないことに落胆したりする。当たり前なんだけどね。

最近オザケンが新譜を出してイキナリのことにテレビやネットでざわざわしていた。私はオザケン信者のようにそこまでは彼への強い思いはないのだけど、それでもオザケンが新譜を出したならばそりゃあ気になる世代なのだ。

なんの先入観もなく聴いてみての印象は「相変らずオザケン元気そうでなにより」みたいな感じ。幼なじみのような、親戚のおばちゃんのような、一緒に音楽やってた仲間のようなこの感覚、なんだかわからないけど、とにかく元気そうでなにより、というこれにつきた。

そして、借してもらった人にそれを伝えようとしたら、全く同じことを先に言われてしまった。私だけじゃないこのオザケンへの気持ち、オザケン的なこれってなんだろう?

久しぶりの人に会って、お互い状況も年代も以前と変わってしまっている(はずな)のに、確かに顔にはシワのようなものできて、全体に当時のとがったものやきらきら輝いていた無邪気さが減っていたとしても、あーなんか相変らず元気そうでなによりと言われるあの感じ、あれっていい。
決して成長していないとか、退化してるということではなくて、逆に大人になってガラッと変わってしまったりではなくて、大事にしている芯はそのままに(本人が意識してようがしてまいが)だけど年相応に進んでいるのだよ歳を重ねることを。進むことも留まることにも無理が無い、素直さというか。

オザケン的なそれは、たぶんそんな素直さと、だけどその素直さが平坦な単純さではなく積み重ねてきた確信のような位置のあるものなのかもなぁと。

 

さてさてこの長い長い前置き。

昨年末に久しぶりに個展をしました。ずっと毎年続けていたのに、震災の頃から生活というか意識が変わり昨年までの間にもちょこちょこ個展やアートフェアなどやってはいたけどなんとなくそわそわしていて、さてまたいつも通りの個展をやるか〜という意識で重い腰をあげた感じはこの昨年末の個展が久しぶりだったような気がします。
私の中では変化もあるし、今までにない試みもあったけど、今まで展示を見てきてくれた人があれをみて「久しぶりだけど相変らず元気そうじゃん」ってちょっとニヤニヤしながら見てくれてたらそれがいちばん満足かなって。

年末年始の仕事の忙しさとその後の確定申告などで気づいたら3月なかば。文字にして書きたいことはいつもいっぱいあって、個展のこともっと具体的に書きたかったのに時間がたってしまったのでこんな感じで個展納め。

仕事もう少し落ち着いたら、今年はやりたいこといくつかあるのでぼちぼち作っていこ。
5月のグループ展と10月のグループ展に向けてゆるく描いていこー。


31
8月 16

どこにいるのか、ピンとこない。

初対面の人と絵を描いてるという話しになった時に、どんな絵ですか?と聞かれると答えに困る。これはラーメンが好きと言った時に、どこのお店がオススメ?と聞いてくる人とも似ている。というのも、相手が自分と同じぐらいか、それ以上にラーメンが好きなら話しは早いのだけど、恐らく自分よりはこの件に関して疎いだろう相手に、自分の好きな方向性をどう説明すれば伝わるのかを迷ってしまう。一般受けする説明というか、この件にあまり興味がなく知識も少ないであろう相手に、ニュアンスの大事な部分を説明をするのは難しい。

話しを絵に戻すと、だいたい普通の人は絵なんか興味がない。美術系の知人以外で美術館に行くのが好きな人はあまり見かけないし、ギャラリー巡りをするような人なんかなおさら。そんなことおかまいなしに、自分はアーティストよ!って勢いでもりもり自分の作風やコンセプトとか、知らない人には凄い芸術家みたいに勘違いしてもらえるかっこよさげな展示歴とか、ぺらぺらと喋れる性格ならいいのだけどね。

私の場合、さて、この人にとって、世の中の一般的な人たちにとって、私の立ち位置はどこなのか。と、まずはそこでつまずく。

例えば「絵描きです」なんて言おうものなら「絵で食べてるの?」という直球を投げてくる人がいる。なかには「食ってけてないならプロじゃない論」を始める人もいる。はいはいわかっていますよと思うけれど、生活の諸々を犠牲にしながら絵を描いたり、発表活動を続けているのも事実。そこには「趣味」という意識はない。

1番迷うのが作風の説明で、恐らくは「パッと見わかりにくい感じの絵です」というのが1番わかりやすい。(という矛盾。)

「抽象」「具象」という分け方があるけれど、これも今や複雑になっている。私の大学時代は、具象抽象以外にも、半具象、半抽象、非具象とかなんとか屁理屈のような名称でクラス分けされていた。今の美大はどうなっているのかわからないけど、私は当時その感じが理屈っぽいというか屁理屈っぽくて違和感を持っていた。
ちなみに私は、あまり興味のなさそうな人に答える場合は自分の作風は「抽象っぽい」と答えているし、やや美術好きそうな人には「半抽象というか半具象というか」と答えている。自分の中では、ほぼ具象。

私が作品を描き出す前のエスキースは、ほとんどが文字で、残りはだいたい写真。所謂ドローイングはメモ程度に2割程度。言葉だから具象的かというと、実は自分で後から読んでもよくわからない部分もある程に抽象的な言葉の羅列の時もある。設計図の行程のような文字群ではなくて、感情や光景や擬音や、イメージに近い形のものの名称など、ずらずら書き留めてある。この言葉は具象的なのか抽象的なのか?

それでも最近、本当にごくごく最近になって、自分は具象だとハッキリ自覚するようになった。自称絵描きで、抽象ぽいもの描いてて、絵で食べていけていない、そんなぱっとしないポジションを、立ち位置がはっきりしないと思わなくもなってきた。
絵で食べてけないのに絵を続けている絵描きだし、抽象だと思われがちだけど写真見ながら在るものを描いている。

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