Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog > 制作メモ

制作メモ


13
5月 17

色のはなし

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色の話、というのは難しいと思っている。

過去に参加をしたグループ展の中で外の参加作家がやたらと色の意味を説明しているのが気になったことがある。
〇〇色はこんな気持ちや世界観を表している、というようなことを説明していた。
個人的な印象で色を説明するとどうしても安易に感じてしまう。

私は自分で「色の作家」だと思っていた時期がある。
かなり若い頃で、学生時代から色使いに対する評価を受けることが多かったからなのだけど、
色を選ぶときの一番のポイントは絵の具の素材感だ。

もちろん好きな色はある。ピンクと紫、作品で頻繁に使うターコイズブルーなど。
気づいたら身近に同じ色ばかり集まっていて、家はだいたいポップなピンクのものが多い。

作品に使う色は、
重ねたときの質感、透明感、絵の具自体の物質的な重さ硬さ、にじみ、そういう体感的な要素でしっくりくるものを選んでいる。

先日ピンクについて考える機会が与えられたのだけど
私のとってのピンクは女の子的でもなくぼんやりした位置にある。
作品の中では抜けの部分に使う。
使用している絵の具が垂れたりにじませたときが最もきれいな絵の具だから必然的に薄く使うことになり、結果的に抜けになる。
特に温かみも冷たさも感じない温度を感じさせない色だから余計な情報が少なくて抜けに使いやすいと思っている。

絵の具をキャンバスにおく瞬間の気持ちよさは、絵の具の質感、しみこみ、物質感や抵抗感で、色の気持ちよさは、塗り終えたところからじわっと感じられる。

こんな私でも高校生ぐらいまでは、全身黒などモノトーンの色ばかり身に着けていた。
描く絵もくすんだグレートーンの作風だった。
「南は色で、北は形」といいたことがあるけど、そのころ妙に納得したのを覚えている。

私はいつから今の色になったのか、今の色がほんとの自分なのかまだいまいちわからない。

 


17
3月 17

今の自分と、個展と、オザケン的なもの

私は自分のことをよくわかっている、つもりでいる。近しい他人より、よっぽど他人目線で自分を見ている、ぐらいに思い込んでいる。だけれど人から言われる「あなたって○○なタイプだよね」の中には、やはり自分の見る自分や近しい他人に言われる私とかけはなれているものも時々あり、その内容にというよりも他人にわかってもらえていないことに落胆したりする。当たり前なんだけどね。

最近オザケンが新譜を出してイキナリのことにテレビやネットでざわざわしていた。私はオザケン信者のようにそこまでは彼への強い思いはないのだけど、それでもオザケンが新譜を出したならばそりゃあ気になる世代なのだ。

なんの先入観もなく聴いてみての印象は「相変らずオザケン元気そうでなにより」みたいな感じ。幼なじみのような、親戚のおばちゃんのような、一緒に音楽やってた仲間のようなこの感覚、なんだかわからないけど、とにかく元気そうでなにより、というこれにつきた。

そして、借してもらった人にそれを伝えようとしたら、全く同じことを先に言われてしまった。私だけじゃないこのオザケンへの気持ち、オザケン的なこれってなんだろう?

久しぶりの人に会って、お互い状況も年代も以前と変わってしまっている(はずな)のに、確かに顔にはシワのようなものできて、全体に当時のとがったものやきらきら輝いていた無邪気さが減っていたとしても、あーなんか相変らず元気そうでなによりと言われるあの感じ、あれっていい。
決して成長していないとか、退化してるということではなくて、逆に大人になってガラッと変わってしまったりではなくて、大事にしている芯はそのままに(本人が意識してようがしてまいが)だけど年相応に進んでいるのだよ歳を重ねることを。進むことも留まることにも無理が無い、素直さというか。

オザケン的なそれは、たぶんそんな素直さと、だけどその素直さが平坦な単純さではなく積み重ねてきた確信のような位置のあるものなのかもなぁと。

 

さてさてこの長い長い前置き。

昨年末に久しぶりに個展をしました。ずっと毎年続けていたのに、震災の頃から生活というか意識が変わり昨年までの間にもちょこちょこ個展やアートフェアなどやってはいたけどなんとなくそわそわしていて、さてまたいつも通りの個展をやるか〜という意識で重い腰をあげた感じはこの昨年末の個展が久しぶりだったような気がします。
私の中では変化もあるし、今までにない試みもあったけど、今まで展示を見てきてくれた人があれをみて「久しぶりだけど相変らず元気そうじゃん」ってちょっとニヤニヤしながら見てくれてたらそれがいちばん満足かなって。

年末年始の仕事の忙しさとその後の確定申告などで気づいたら3月なかば。文字にして書きたいことはいつもいっぱいあって、個展のこともっと具体的に書きたかったのに時間がたってしまったのでこんな感じで個展納め。

仕事もう少し落ち着いたら、今年はやりたいこといくつかあるのでぼちぼち作っていこ。
5月のグループ展と10月のグループ展に向けてゆるく描いていこー。


31
8月 16

どこにいるのか、ピンとこない。

初対面の人と絵を描いてるという話しになった時に、どんな絵ですか?と聞かれると答えに困る。これはラーメンが好きと言った時に、どこのお店がオススメ?と聞いてくる人とも似ている。というのも、相手が自分と同じぐらいか、それ以上にラーメンが好きなら話しは早いのだけど、恐らく自分よりはこの件に関して疎いだろう相手に、自分の好きな方向性をどう説明すれば伝わるのかを迷ってしまう。一般受けする説明というか、この件にあまり興味がなく知識も少ないであろう相手に、ニュアンスの大事な部分を説明をするのは難しい。

話しを絵に戻すと、だいたい普通の人は絵なんか興味がない。美術系の知人以外で美術館に行くのが好きな人はあまり見かけないし、ギャラリー巡りをするような人なんかなおさら。そんなことおかまいなしに、自分はアーティストよ!って勢いでもりもり自分の作風やコンセプトとか、知らない人には凄い芸術家みたいに勘違いしてもらえるかっこよさげな展示歴とか、ぺらぺらと喋れる性格ならいいのだけどね。

私の場合、さて、この人にとって、世の中の一般的な人たちにとって、私の立ち位置はどこなのか。と、まずはそこでつまずく。

例えば「絵描きです」なんて言おうものなら「絵で食べてるの?」という直球を投げてくる人がいる。なかには「食ってけてないならプロじゃない論」を始める人もいる。はいはいわかっていますよと思うけれど、生活の諸々を犠牲にしながら絵を描いたり、発表活動を続けているのも事実。そこには「趣味」という意識はない。

1番迷うのが作風の説明で、恐らくは「パッと見わかりにくい感じの絵です」というのが1番わかりやすい。(という矛盾。)

「抽象」「具象」という分け方があるけれど、これも今や複雑になっている。私の大学時代は、具象抽象以外にも、半具象、半抽象、非具象とかなんとか屁理屈のような名称でクラス分けされていた。今の美大はどうなっているのかわからないけど、私は当時その感じが理屈っぽいというか屁理屈っぽくて違和感を持っていた。
ちなみに私は、あまり興味のなさそうな人に答える場合は自分の作風は「抽象っぽい」と答えているし、やや美術好きそうな人には「半抽象というか半具象というか」と答えている。自分の中では、ほぼ具象。

私が作品を描き出す前のエスキースは、ほとんどが文字で、残りはだいたい写真。所謂ドローイングはメモ程度に2割程度。言葉だから具象的かというと、実は自分で後から読んでもよくわからない部分もある程に抽象的な言葉の羅列の時もある。設計図の行程のような文字群ではなくて、感情や光景や擬音や、イメージに近い形のものの名称など、ずらずら書き留めてある。この言葉は具象的なのか抽象的なのか?

それでも最近、本当にごくごく最近になって、自分は具象だとハッキリ自覚するようになった。自称絵描きで、抽象ぽいもの描いてて、絵で食べていけていない、そんなぱっとしないポジションを、立ち位置がはっきりしないと思わなくもなってきた。
絵で食べてけないのに絵を続けている絵描きだし、抽象だと思われがちだけど写真見ながら在るものを描いている。


8
9月 14

この瞬間は続くと!

大人になって経験値が増えてきて、イイ事もいっぱいあるけど、希望を持つことを最初から放棄したりやたらと現実的になってしまうのは寂しいことだと思う時もある。
私は(というか誰でもそうなのかもしれないけれど)しつこいぐらいの人間不信な部分があって、自分でもそれが面倒臭くもなるし、それによって自分で自分を苦しめてるのも知っている。それでも、ただ無邪気に能天気に信じるということに抵抗はある。
だけどもそんな私でも信じようと思う人(コト)は勿論あるわけで、結局は信じるとか信じないじゃなくて、信じたいと思える相手かどうか、そこが一番大事なことなんじゃないかと思っている。
永遠なんてないとかわかっていても、この瞬間が続くと信じたかったり、その瞬間の真実は私の中で永遠に真実ならば、それでいいんじゃないかと思う。

◉2010年展示のテキスト

高校時代、帰り道、夕方から夜に変ろうとする蒼い時間。
薄明かりの中で自転車を止めて、1人でスプリンクラーを眺めるのが好きだった。
パルプ工場、整然と積まれて並ぶ木材の頂点で、それはボンヤリまわっている。
シュウイッ、シュウイッと、鋭いのにまどろっこしい音と、
割と正確な弧を描いて飛び散る細い水は、
頰の同じ道筋をひたすらに流れ続ける涙みたいで、
私は、その泣いている姿を影からひっそりのぞいているような気がしてきて、
なんとなく眼が離せなかった。
そんな特別な光景は、瞬間に切り取られ、すぐさま色をつけていく。
それからトンッと一瞬だけ静止して、たらたらと溶け出し、
どこか次の光景にむかうのだと思う。
あんなに好きだったものを忘れてしまう時が来るように、
仕方なく、でも確実に行われる作業のようなものなのだと思う。
その秘密の仕組みに、私は気づいている。

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26
12月 13

Worksに2年分の作品を追加しました。

久しぶりにサイトの更新です。
2012年、2013年の個展の作品を追加しました。

http://naoko-nojima.com/works/

 

毎年テキストを展示に加えているのですが、いつもそのテキストの評判が良いので、今回はテキストもWorksに加えました。
現状としてテキストの位置付けが難しくて、私の作品にとってタイトルとテキストの意味は大きいのだけれど、作品展の中でそれをどういう形で表現するべきなのかシックリくる形が見つかっておりません。
そんなわけで、サイトにおいても作品の一覧の中にいれてみました。

クリスマスも、イブが終わるとクリスマス当日午後からそこらでクリスマス飾りが片付けられてお正月のディスプレイにかわります。今日のぞいたスーパーでは、普段は安いカマボコがお正月用に三倍ぐらいの値段になって種類豊富に並んでいました。こうなるともうすっかり年末モード、今年の反省振り返り気分です。(カマボコのお正月価格には毎年ついついひっかかってしまう!)

今回追加した2012年,2013年は、今まで長い間続けていたギャラリーではなく、別の場所で個展を行いました。これはたまたまタイミングがそうだっただけで特に強くそれを望んだ結果ということでもありませんでしたが、いろんな場所で展示することは新たな発見につながるので勉強になります。

私の制作活動は「個展」という形で進んできているので、それを無しには今のところ考えられません。だけど最近は、変わり目かもな〜と制作もプライベートにも感じています。勿論いい意味で変わり目にしたいと思っているし、そう出来るのではないかと思い込んでいます。

今年もあとわずか!

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