Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog > 制作メモ

制作メモ


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7月 20

グループ展に参加しています!

http://exhibition.3gallery.net/?eid=251

本日よりグループ展に参加しております。
今回は準備期間も短くプランなしのまま最近仕上げたものをそのまま出しました。
そんなわけで2枚の出品にも関連性もない2枚をそのまま並べたという出品の仕方です。

コロナ感染症により生活が変化しました。
それでも仕事を続けていたので私の場合は本当の自粛生活とは違うのですが午前は仕事を休み、
満員電車のストレスもなく、帰りもサクッと残業なく帰宅。
帰りの電車も空きすぎてて時々夢の中にいるみたいだな、、、とぼんやり不思議な感じでした。

夜の時間が長くなり今までになく絵を描く時間も増えてあまり何も考えずに無心で絵を描いたり、
あとはお手製マスク作りやこの数年やってる刺し子などの裁縫をしたり、何のためでもない制作の時間が増えました。
そんな時間軸の中で制作した一番新しい作品2枚です。

1つは今までにも何枚も書いている三つ編みの絵です。今らしさという意味ではカビぐらいです。
毎日電車通勤して接客をしていると時々ウィルスのような目に見えないものがもし見えたらこの空気中に舞ってあちこちにぺたりとくっ付いているのではと想像します。そんな時、カビのような胞子のような鮮やかなものが湿度を持ってあちこちにへばりついているような錯覚になります。
今までと同じ三つ編みを描いても、今回はカビている三つ編みです。

あとは新しいモチーフとしてつぼみを描きました。ゆりのつぼみです。これについてはまた今度書きたいと思います。
こんな時期ですが宜しくお願いします。
ギャラリーのSNSでも情報の発信、ネットからの購入も可能です。


3
1月 20

去年と今年の境目を超えて(個展振り返り)

去年の個展後にまとめを投稿したかったのに年が明けてしまった。あけましておめでとうございます。大晦日から1日はさんだだけで新年で今年こそはどうしたいとかいきなり区切りをつけるのもバカバカしいと思う反面、そこで過去の自分の不足分をリセットしてしまいたい気持ちもわかる。

去年の個展について、去年の私について。

作品タイトルと作品のバランスについてまだまだ模索中の中、昨年夏の個展の際には最近自分の中で響いている現代「短歌」に影響を受けて、タイトルをすべて短歌の長さに統一した。タイトルを大きく展示したいというのはずっとあったもののそこがまだ煮えきらず、更に展示会場の方針もありタイトルの表示を大きくはできないままとなった。

それでも結果的には同じ長さにしたことで絵画とセットになって見えてくるというか大きさで物理的な主張をしない割に思いの外言葉が目に入るような気もした。モチーフは今までにも描いていた箱や「の」が少しと過去のグループ展からの延長でレモン、新たに貝やゼリーが加わった。
いつもはタイトルの言葉は先にある程度はあるけどゆるい状態で始まり、作品が完成に近づくにつれて徐々にまとまったり作品完成後にまとめたりするのだけど、この個展ではタイトルの短歌を先に作って(場合によっては最後に微調整する程度)その言葉をテーマに絵を描くという進め方をしたのも初めてのこと。

そして何より去年は描くことが今までよりも楽しくて救いになった年でもある。反面仕事は心身共に限界を感じるほどの忙しさで体力に自信のある自分でも残業中に朦朧として知らない間に涙がにじんでるほど辛い時期もあった。そしてその時期と個展前が重なり、今となってはすごーく遠い思い出のようにぼんやりしている。
仕事を無理やり終えてボロボロになって終電近くに帰宅して朦朧としながら真夜中に絵に向かってるうちに毒素が抜けていくような感じだった。どちらかというと描くことが好きでも生活に負けて描き続けることが辛かった方が多いので、制作活動を続けてきて初めて描くことに救われた。

それは続けてきたから味わえたもので以前の自分からは想像もつかなかったわけで。それでもやっぱりふとした時に描いてて意味なんかあるの?って思うこともあるけど。

今年も気持ち良く描き続けられそうな気がする。


2
1月 19

目標もなく描く

新年があけました。昨年は特に発表の機会を設けない一年でした。

毎日仕事に明け暮れる生活の中で絵を描き続けることは難しいけれど、ふと描きたくなる瞬間が多かった年でもありました。展示を決めてそれに向けて描くタイプなので、発表の予定がないのに日常的に描くということが実は今まであまりなかったのです。

目標なく描くと、意外な発見が多かったりします。意図しない気づきや、逆方向に行ったおかげで現行が間違いではなかったという確信にたどり着けたりもしたので良いきっかけにもなりました。

以前はそこまで美術展に足を運ぶタイプでもなかったけど、近年は何を探すように音楽のライブや美術展にも行くことも増えました。なんというか油断すると日常生活に埋もれてしまいそうになる感性を奮い立たせるように仕向けるというか、おかげでなのか返って自分に響くことを見つけて感動する感覚も大きくなったような気もします。

最近は電子マネー化が進んで手でお金を数えたり目に見えてお金が減っていくことを感じられないことに少し怖さを感じつつ、便利にはかなわないなぁとも思ったりします。昔のバイト先で、世の中振り込みが主流なのに給料袋でもらっていた時期があって私にはその給料袋を手に取る瞬間の手応えがすごく良かったり。デジタル表記の時計より文字盤の方が時間を感じられたり。私の性格がひねくれているせいで時代と逆行したいだけなのか、アナログ世代が染み付いているのか、なんとなく体感的に感じられないものが苦手なのかもしれません。

そういった電子化や、断捨離や終活といった捨てることや身軽になることがブームの中、やっぱりまだまだしつこく手応えを求める生活をしたいと思うこの頃です。自分にまとわりつく重みを感じられるモノ達をずるずる引きずりながら歩き続ける体力をまだ失いたくないという感じです。

まだ昨年のような発表の機会もなく目標など定めずに描きたい気持ちもあるんだけど、そろそろまた個展でもしようかなというのが今年の気分。さてどうしようか。

そんなわけで今年は実りある制作活動をしたいところです。


9
6月 18

続け方いろいろ

大学を卒業してから年数が経って、周りを見ても自分もだけどそろそろ1周回って落ち着いたみたいな感じがある。
制作活動は色々な続け方があるけど、教授や先輩たちが必ず言うのは「続けることが大事」で、自分もそれだけをなんとか粘ってやってきた。だけど、闇雲に無理して体力と精神力を頼りにしても、自分が若い頃に思っていた程の成果は自分で実感を得ていないのがほんとのところ。

私はこの先も続けるのだろうけど、続け方が下手だと思う。結局仕事も生活も制作も全部が大事で全部が中途半端というか形になっていないというか、全てに納得いっていないけどそんなものなのかな。

いまだに続けている同級生達の、それぞれのやり方がいいなぁと思うこの頃。評価をされて表舞台で続けられる人のことはさておき、自分含めそれ以外のポジションで続ける人たちの作品がリアルだなとこの頃は思う。たいていはブランクがあったりするし作風も『現代の現代アートな作風』でないところもいい。
なんだかんだ言って絵を描きたい、そういう本来の姿に戻ってきているような気がする。

もちろん評価されている人を否定しているのではなくて、そこから解放された人たちのリアルみたいなとこ。例えば、油絵科だからと油絵具に縛られて窮屈に感じていた同級生たちが油絵具への執着がなくなっていたり個展などの発表活動や売り込みとは無関係に描き出したり。鉛筆などのモノクロ単色で人の顔を写実で描き始めたとか、サラリーマンしながら水彩でイラストを描き溜めているとか、久々に絵を描きたくなって今更(芸大出てるのに!)絵画教室を探してるとか、現代アートの「今」にいる人たちのアートな説明よりも、そういう人たちの今思っていることや今の作品の方が興味深い。私はといえばどちらでもない中間辺りにいて、結局いつも中途半端な立ち位置だけど。

学生時代にライブを見てから好きだったミュージシャンが活動をしなくなってずいぶんたってもう辞めたのかと思っていたら、今年15年ぶりに突然アルバムを出した。
それがまたとっても良くて、しがみついて惰性で続けたり表舞台にいるだけが続け方じゃないなと思ったりもして。
自分の続け方を見直す時期だなと思いながら、最近は久しぶりに自画像を描いたり夜な夜な刺し子をしている。

 


7
2月 18

ほんのちょっとの

おかしみ、

という言葉が近いかな、と思う。
私がこの言葉にピンときたのは、器の作家さんの展示等を企画している方のお話の中で
器の中にクスっとくるようなちょっとした『おかしみ』が感じると更に良い作品だと感じるというようなことだったと思う。

ユーモア、というものを履き違えている人はたまにいる。ブラックユーモアに置いてはもっと顕著だ。
ブラックユーモアには根本に愛のようなもの、もしくはほんのちょっとの救いがある。
ただの批判を毒舌だとかブラックユーモアだとかいうのは、なんだか違うなあと。

そこに、愛はあるのか、ということ!

ユーモアは、ガハハキャッキャとはしゃぐ無邪気なものとは少し違って、正に おかしみ、だと思う。
ほんのちょっと滑稽だったり、情けなかったり、くだらなかったり、必死だったり、皮肉を含んだり、そういう要素がちょっとだけ入っているんだけど、でもなんだか笑えるんだよなぁ、ってそういうこと。(だからユーモアには愛がある。)

優しさや思いやりもそうなんだけど。
ほんのちょっとのそれが感じられた時ほど、真の気持ちなのではないかと信じたくなるから。

映画でも、残酷な結末が嫌いだ。とはいえ、根本が暗い人間なので暗いストーリーは好きなのだけど、暗いとか厳しいだけの現実を描いていても、ちょっとだけでいいから希望を感じさせて欲しい。最後にきらっと光が差し込む美しい風景が、一瞬写るだけでもいい。逆に幸せなストーリーにほんのちょっとの毒があるとグッと来る。
ただただ残酷、ひたすら不運、なんとなく幸せになりそうにない雰囲気、そんなもんだけで物語を完結して満足しているのは、エゴかじゃないのかなんて思うし、そういう残酷さ全開なストーリーに簡単に泣けるのは、きっと幸せな人なのだろう。

学生時代の当初は作品を褒められる時にキレイだとか詩的だとか言われる事があったのだけど、そういう言葉をかけられると捻くれた私はそこにちょっとの毒を加えたくなる。そうして僅かな毒を盛っているうちに気づいたら、そのちょっとの毒が、画面全体に広がっていた。
以前作品について書いていただいたテキストの中に、一見鮮やかできれいな色なのに毒を持った虫のような作品だという記述があり、私自身もしっくりきた。

実際に私が一見もったりゆったりして見えるのに、毒のカタマリなのです。
だけど、其処(底)にほんのちょっとの救いやユーモアを持っているつもりだし、こんなに皮肉っぽく生きてるつもりなのに実際は間が抜けた事態に巻き込まれやすく気づいたらなかなか滑稽な人生でもあり、そのほんのちょっとのニュアンスが作品の中に(重みにだけ片寄らずに)もうちょっとだけ出てくれれば 気楽なのになぁと、思う訳です。

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