Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog > 2013 > 9月 > 05

9月 5th, 2013


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9月 13

自由と、空っぽの箱

みんな不自由そうに生きてるように見える。それにひきかえ自分は自由だなと思う。
私には守るものが何もない。心配するのは自分のことだけでいい。孤独と自由はセットだと気づいたのは、震災の時だった。私には心配するべき家族や子供も、抱えている会社や社員もいない、真っ先に心配して確認を取らなければいけない人も事もない、ということにあの時初めて気がついた。いい捉え方をするなら、気楽な立場、ということだ。

不自由そうにしている皆が望む自由とは、いったなんなんだろう。
私が考える自由とは、PC本体のようなもの。PCは今の私にとって必要不可欠なものではあるけれど、そこには頻繁に使用するソフトが入っていて、ネットが繋がる環境だからであって、ソフトも入っておらずネットも繋がらないPCは、まったく意味を成さない。可能性の塊ではあるけれど、そのものだけでは空っぽの箱でしかない。つまり自由にも何かオプションがついて初めて魅力的で意味を持つ自由というものになるのだろうなーと。

毎日残業でいくら働いても低所得者層から抜け出せなかった頃と比べたら、定職にもつかず時間だけはある現在は、金銭的な面はそんなに変わらないけど、自由度が違う、はずだった。行きたかったライブや映画、残業後だといつも混んでて入れない飲食店にも自由に行けると思っていたのに、実際は同じくらい行けていないのが現状。決定的にお金がない(働いていないから当然だ!)からだ。正に、自由だけあっても全然自由じゃなかったという例。

例えば、家事や育児に追われて自由じゃないと感じている人は、家事をしてあげる相手もいなくて、子供もいないような、独り身がいいということでもないような気がする。大事な家族や愛する子供がいて、そこに更に自由がもう少しあればいいなということなのだと思う。その場合の自由はたしかに魅力的な自由だろう。

例えば、風俗やキャバクラで自由に遊びたいという男は、奥さんや恋人という絶対的な大事な存在がいて、且つ自由にそういうお店でも遊べたら、その場合の自由はきっと楽しい自由だろう。恋人や奥さんもいなくて、お金で成り立ってる異性との関係だけではその瞬間楽しくても限界はあるだろうし、自由な開放感も続かないだろうな。クリスマスにはサンタコスプレのキャバ嬢とはしゃいで、バレンタインには水商売の女からたくさん義理チョコもらって、営業として誕生日を覚えてくれてるキャバ嬢にお金払ってお祝いされて、イベントのたびにそんなのがずっと続いてもたぶんいつか虚しくなる。

例えば、仕事があってある程度の給料も保証されて、でもペース配分や時間は自由だという場合の自由は確かに有意義な自由だろう。デザインの仕事などでフリーランスの人が周りにいた時期もあるけど、結局みんな今は会社に入っている。フリーで仕事していても納期は絶対あるわけだし、フリーだから逆に相手側に進行を支配されて土日も休みなく仕事していたフリーランスの知人もいた。結局同じ不自由なら、ある程度管理してもらう方が楽な場合もあるようだ。

今の私は、元々自由な私に無職という状況が加わって、更に自由度が増している。空っぽのPCにとても近い状態だ。

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