Painter 野嶋奈央子 Naoko Nojima Blog > 2013 > 5月

5月, 2013


30
5月 13

2つ以上の世界を持てるかどうかで

ツイッターでいつも好きなツイートをする忍さんという方がいるのだけど、彼の呟きで最近しみじみ共感した内容がこれ。

@shinobuk「世界を2つ以上持てるか、それによって生き延びられるかどうか決まる気がするんだな。」

ここにおける生き延びるというのは、豊かに生きていくというか、精神がある程度健康でいられるかというような意味合いだと思う。

美大や美術予備校なんかで絵を描いている人には、好きな音楽や映画や小説などそういうものをたくさん持っていることがその人の感受性になる部分もあって、美術以外にも愛する文化をなにかしら持っている人が圧倒的に多かった。

そんな私も好きなものやことが多過ぎて持て余すぐらいで、美術の他にも映画も音楽も食べ歩きやお酒も、雑貨や洋服も、時間もお金もないのに好きなことだらけ。2つ以上の世界を常に持っている。

社会に出てからは、働きながら絵を描くという生活に疲れる事も多いけれど、やっぱり仕事の他に制作活動というもうひとつの大事な世界があるから私は生き延びているのだろうという実感もある。

ずっと作品のことだけ考えて生活できればいいなと思う一方で、案外仕事も好きだったり働いて外側の社会と関わる事でバランスとれているんだろうなと思う事も。絵を描くというのは(自分の作風の場合は特に)すごく個人的で孤独な作業なので描き出すとすぐに精神が引きこもりを起こすし、制作を長く続けるにはバランスが大事ではないかなと。

仕事だけが生き甲斐という言う人は、仕事の中で2つの世界を持っているような気がする。生活のためと、仕事の内容がそもそも楽しかったりするのかなーと。

大抵の人は働いているので、仕事ともう1つ以上の他の世界を持つという事になる訳だけど、その2つ目の世界の質感によって人の豊かさはまた違ってくるのだろうとも思う。

今のバイト先では暇な時間にお客さん観察してるのだけど、今まで自分にとって知らなかった世界であるキャバ嬢との同伴客の観察は特に面白い。面白いと言いつつも、時々すごくむなしくなる。それなりにお金もあるだろうその人にとって、このからっぽなヤリトリがもう1つの世界として彼のバランスをとっているのかと思うと、なんだか切なくなったりする。まぁ本人がその時本当に楽しくて癒しになって頑張れるのなら、私が色々思うこと自体失礼なんだけどもね。

もう1つ以上の世界は、特別な事でなくてもいいと思う。好きな人との恋愛だったり家族でもいいし、ベッドから出ないでダラダラしてる時間でもいいんじゃないかな。

元々たくさんの好きで大切な世界を持てる自分は恵まれているのかもしれない。

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6
5月 13

ひねくれバンザイ

私をよく知る人なら、私の極端な卑屈さやひねくれ具合、自意識過剰でマイナス思考のカタマリなのはよーくわかっていると思う。中途半端な知り合い方だと、こういう部分がチラ見えした瞬間に心配されたりする事もあるんだけど、これも一周回って振りきってるので自分では完全にプラスの力だと思っているし、なんならちょっとこの部分に自信すらあったりもする。

絵を描いていると、辛いことがあった時にそれを作品に落とし込めるのは幸せなことだなってよく思うし、私にとってはマイナスやひねくれが作品の糧になる。なによりもこのひねくれこそ私のアイデンティティーだと思っている。

ゆるゆるふわふわとキレイなとこばっかみて、人のいいとこ誉め合いの白々しい会話は嫌いだし、今ではよく見かける自己啓発じみた本によく書いているような強引なプラス思考、そんなもんの受け売りみたいな言葉を口に出してけば幸福にでもなれると思っていそうな人がプラス思考こそ正解!みたいに思い込んでいるのもちょっと気持ち悪い。

あと、プラス思考(風な)人たちがよく口にする、帳尻あわせ的な解釈が好きじゃない。
苦労したらその分いつか報われるとか、幸せそうにみえてもズルいことしてたらいつか壊れる時が来るとか、人は帳尻合わせが好きだなあと思う。私もそう思いたい時はあるけれど、そんなもんに根拠がないこともわかっている。そんな慰めがないと生きていくの辛いのだろうとも思う。

帳尻なんか合わなくても、今を誠実に過ごそうとする事しか信じられない。
どんな人にもいいところはあるし、悪いとこもあるし、悪いところが気になるからってその人を嫌いになることもない。逆に、いい人を好きになるわけでもない。嫌な奴の嫌な部分が人間らしくて微笑ましくなるときもあるし、いいところが退屈に感じることもある。

案外わたしは、プラス思考で人間好きなのかなあ。ひねくれバンザイです。


6
5月 13

みえない傷

時々言葉や文章がどばどば出てきて、メールしたりブログを書かずにいられなくなる。それは絵を描く時にちょっと似ている。なぜかブログ写真がアップ出来ないので、今日はどしどし文章を書く。

私は小さい頃によく腕を脱臼していた。
自覚症状があまりなかったので、時々おかしいと気づいた母が「むすんでひらいて」を歌い、私はその歌に合わせて手をむすんだりひらいたりしてるんだけど、最後の「その手を上に〜♪」のところに来ると片手だけ上に上がらずにぶらーんとしてるのを見ては「また脱臼だわ!」と気づくのだった。
いまでも、台所の片隅でむすんでひらいてをしている光景は記憶に残っている。

幼少の頃の脱臼癖もすっかり忘れていた中学時代、終業式の日に階段で転んで肩を脱臼した。翌日から始まった冬休みは、肩から腕にかけてカチカチに固められて不自由な休暇だった。
脱臼する途中の亜脱臼があまりに痛いため、脱臼した瞬間に逆に楽になって治ったのかと勘違いしたこともあり、そのまま丸1日脱臼に気づかずに過ごしてしまった。

私はどうも痛みに気づきにくいというか、こんなもんで痛いと言ってはいけないのでは?という謙遜に近いようなおかしな遠慮があって、無意識に痛みを我慢をしてしまうところが昔からある。

あの時の左肩脱臼で、丸1日痛みを我慢して放置したせいと、最後に面倒くさくなって三角巾をはずして過ごしたせいもあり、今でも癖になっていて左肩がすぐ抜けてしまう。
運動選手でもないからと手術せずに極力使わないようにしているけど、上にあるものを両手で取ることはできないし、寝返りで抜ける事も多くて日常生活でもわりと不自由だ。だけど、私の習慣性左肩関節亜脱臼なんてもんは、脱臼して三角巾でもしない限り外からは見えない。

それなりに生きていると、心に色んな傷を負うことになる。
私はうじうじと引きずる事が大っ嫌いなので忘れているつもりだけど、傷が完治していない場合にやっぱりどこかで古傷が痛むようにジワっと嫌な思い出が甦ってしまう。

痛みに気づかないふりして放置したせいと、完全に治りきる前になんとなく治療をやめた左肩の脱臼が、いまだに私の生活に影響を及ぼすように、完治しきらない見えない心の傷は誰にでもあるのかもしれない。外側からは気づかないだけで。


4
5月 13

モチーフ的風景

私のモチーフは日常的なものが多い。
道すがら目に入るとそのまま目が離せなくなるもの。
もしも絵を描いていなければ、そんなどうでもいいものに釘付けになったまま仕事に行くことも忘れてしまいそうなんだけど、いつかモチーフにしようと思うとひとまず前に進めるんだけど。どれも一見無意味にも見えるんだけど、それがいつか、自分の心境とリンクして意味を持つから不思議だよ。

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