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15
8月 19

久しぶりのブログと久しぶりに個展

書きたいことも多いけど日常が忙しいと滞り、このブログにも書きかけのまま非公開のテキストが増えてしまった。「なんと日常とは強いことか!」といつも思うわけで、私の些細な想いなんて「日常」が始まってしまえば一瞬で日常に黙殺されているような感じ。

それでも絵は今までになく描いており、それも今までになく楽しく感じている。それも不思議なことに、今までになく仕事が忙しいのに、なのだ。残業してくたくたになって帰宅して0時をまわっても描こうと思うのだから自分でもどうしたんだろうかと思ってしまうぐらいに描くことが楽しい。

描くのが辛い時期の絵はそれはそれで良いものだし、個展で1番苦しんでギリギリまで出さないでおこうと思った絵が一番先に売れたりもするので、
今が楽しく描いているからといって作品がいいというわけでもない。でもそれでいいと思ってる。

自意識が勝ったり、自分で自分の調子をコントロールしてる時の作品を、自分ではあまり魅力を感じない。なんだかちょっと引っかかりながら描いている方が余分なものが付いてきて(邪魔だったりもするけど)嫌いじゃないので。

今は描くのは楽しい分、体力や時間や仕事での精神的な疲れが酷く「日常の私」に関しては限界に近いので、逆に描くこと(が楽しいの)でバランスを取れているのかもしれない。
つまりは安心安定した時期の作品は私にはないのかも?

儘ならない!ということは多いけど、そこで止まったり均したりしないでそこから壊すことを恐れたくない。とまぁ今夜も描いて熱くなっての真夜中なので久しぶりにこんなブログを書いてしまった。

そんな儘ならない日々の中、久しぶりに個展があります。

8.26〜31
11時〜18時30分
*初日は14時〜/最終日は16時まで
新宿歌舞伎町のギャラリー渓にて
○初日夕方17時30分よりギャッラリートークもあります。

これは新宿クリエイターズ・フェスタ2019のイベントと中で行われる個展です。
このイベントに伴い今月から新宿のあちこちで展示やイベントが行われています。

よろしくお願いいたします!

nojimaDMs

 


02
1月 19

目標もなく描く

新年があけました。昨年は特に発表の機会を設けない一年でした。

毎日仕事に明け暮れる生活の中で絵を描き続けることは難しいけれど、ふと描きたくなる瞬間が多かった年でもありました。展示を決めてそれに向けて描くタイプなので、発表の予定がないのに日常的に描くということが実は今まであまりなかったのです。

目標なく描くと、意外な発見が多かったりします。意図しない気づきや、逆方向に行ったおかげで現行が間違いではなかったという確信にたどり着けたりもしたので良いきっかけにもなりました。

以前はそこまで美術展に足を運ぶタイプでもなかったけど、近年は何を探すように音楽のライブや美術展にも行くことも増えました。なんというか油断すると日常生活に埋もれてしまいそうになる感性を奮い立たせるように仕向けるというか、おかげでなのか返って自分に響くことを見つけて感動する感覚も大きくなったような気もします。

最近は電子マネー化が進んで手でお金を数えたり目に見えてお金が減っていくことを感じられないことに少し怖さを感じつつ、便利にはかなわないなぁとも思ったりします。昔のバイト先で、世の中振り込みが主流なのに給料袋でもらっていた時期があって私にはその給料袋を手に取る瞬間の手応えがすごく良かったり。デジタル表記の時計より文字盤の方が時間を感じられたり。私の性格がひねくれているせいで時代と逆行したいだけなのか、アナログ世代が染み付いているのか、なんとなく体感的に感じられないものが苦手なのかもしれません。

そういった電子化や、断捨離や終活といった捨てることや身軽になることがブームの中、やっぱりまだまだしつこく手応えを求める生活をしたいと思うこの頃です。自分にまとわりつく重みを感じられるモノ達をずるずる引きずりながら歩き続ける体力をまだ失いたくないという感じです。

まだ昨年のような発表の機会もなく目標など定めずに描きたい気持ちもあるんだけど、そろそろまた個展でもしようかなというのが今年の気分。さてどうしようか。

そんなわけで今年は実りある制作活動をしたいところです。


09
6月 18

続け方いろいろ

大学を卒業してから年数が経って、周りを見ても自分もだけどそろそろ1周回って落ち着いたみたいな感じがある。
制作活動は色々な続け方があるけど、教授や先輩たちが必ず言うのは「続けることが大事」で、自分もそれだけをなんとか粘ってやってきた。だけど、闇雲に無理して体力と精神力を頼りにしても、自分が若い頃に思っていた程の成果は自分で実感を得ていないのがほんとのところ。

私はこの先も続けるのだろうけど、続け方が下手だと思う。結局仕事も生活も制作も全部が大事で全部が中途半端というか形になっていないというか、全てに納得いっていないけどそんなものなのかな。

いまだに続けている同級生達の、それぞれのやり方がいいなぁと思うこの頃。評価をされて表舞台で続けられる人のことはさておき、自分含めそれ以外のポジションで続ける人たちの作品がリアルだなとこの頃は思う。たいていはブランクがあったりするし作風も『現代の現代アートな作風』でないところもいい。
なんだかんだ言って絵を描きたい、そういう本来の姿に戻ってきているような気がする。

もちろん評価されている人を否定しているのではなくて、そこから解放された人たちのリアルみたいなとこ。例えば、油絵科だからと油絵具に縛られて窮屈に感じていた同級生たちが油絵具への執着がなくなっていたり個展などの発表活動や売り込みとは無関係に描き出したり。鉛筆などのモノクロ単色で人の顔を写実で描き始めたとか、サラリーマンしながら水彩でイラストを描き溜めているとか、久々に絵を描きたくなって今更(芸大出てるのに!)絵画教室を探してるとか、現代アートの「今」にいる人たちのアートな説明よりも、そういう人たちの今思っていることや今の作品の方が興味深い。私はといえばどちらでもない中間辺りにいて、結局いつも中途半端な立ち位置だけど。

学生時代にライブを見てから好きだったミュージシャンが活動をしなくなってずいぶんたってもう辞めたのかと思っていたら、今年15年ぶりに突然アルバムを出した。
それがまたとっても良くて、しがみついて惰性で続けたり表舞台にいるだけが続け方じゃないなと思ったりもして。
自分の続け方を見直す時期だなと思いながら、最近は久しぶりに自画像を描いたり夜な夜な刺し子をしている。

 


23
4月 18

公開イイワケ

私はネット中心の生活をしている。SNSも好きで用途に合わせて使い分けをしてどれも楽しんではいるけど、Facebookでは時々気になる投稿もあったりして苦手なものが混ざってくる。

それでも距離を置いて眺めていると発見もあったりするもんで。(嫌いなものほど気づくことは多かったりするもの。)Facebookで感じる私のモヤモヤの原因は、FB特有の架空ぶりでも過剰ぶりでもなく、SNSを利用して甘える人たちだと思った。

FBでは自分を正当化する言い訳風の書き込みを時々見かける。簡単に言うと、ちょっとさぼってしまったりうまくいかないときに「自分はがんばっている」し、「だけどうまくいかないこともある」し、「自分の不足な部分を自覚している」し、「なんとか改善したいと思っている」し、「まだまだがんばるぞ!(やる気に満ちている自分)」というような内容で、自分の不手際で迷惑をかけてしまっている人がSNS上にいてその文章を読まれることを前提に書いているのがなんとなく見え透いている。つまり公開イイワケなのではないだろうかと。
そういう人はそれで満たされるとその書き込みはたいてい削除するので、タイムラインを見るとうまくいったことだけが並んでいる。

モヤモヤしながらも怖いもの見たさでつい読んでしまうんだけど、それに対して乗っかる人たちというのもまたいる。
上記のような公開イイワケに対して頑張ってるの見ててわかるよ!という慰めや「こうこうしたらもっとよくなるよ」等の助言など、そういう(空虚な)頑張るぞ発言を見守ってる姿勢で元気な若者を応援しているみたいな立ち位置の大人というのも一定数いるのだった。(どうせそのコメントも投稿ごと削除されてしまうわけだけど)

公開イイワケはそんな味方がどんどこ乗っかってくるので甘えやすいだろうし、自分が直接被害を被っていない限りは応援して甘やかす方もそれなりに気持ちが良さそうで、毎回うまいこと成り立って感心するぐらい。私は、投稿したものを頻繁に削除していく人はあまり信用ができないんだけどね。

それでもこうやって人の嫌な部分がチラ見えするので結局SNSはおもしろいと思ってしまう。


07
2月 18

ほんのちょっとの

おかしみ、

という言葉が近いかな、と思う。
私がこの言葉にピンときたのは、器の作家さんの展示等を企画している方のお話の中で
器の中にクスっとくるようなちょっとした『おかしみ』が感じると更に良い作品だと感じるというようなことだったと思う。

ユーモア、というものを履き違えている人はたまにいる。ブラックユーモアに置いてはもっと顕著だ。
ブラックユーモアには根本に愛のようなもの、もしくはほんのちょっとの救いがある。
ただの批判を毒舌だとかブラックユーモアだとかいうのは、なんだか違うなあと。

そこに、愛はあるのか、ということ!

ユーモアは、ガハハキャッキャとはしゃぐ無邪気なものとは少し違って、正に おかしみ、だと思う。
ほんのちょっと滑稽だったり、情けなかったり、くだらなかったり、必死だったり、皮肉を含んだり、そういう要素がちょっとだけ入っているんだけど、でもなんだか笑えるんだよなぁ、ってそういうこと。(だからユーモアには愛がある。)

優しさや思いやりもそうなんだけど。
ほんのちょっとのそれが感じられた時ほど、真の気持ちなのではないかと信じたくなるから。

映画でも、残酷な結末が嫌いだ。とはいえ、根本が暗い人間なので暗いストーリーは好きなのだけど、暗いとか厳しいだけの現実を描いていても、ちょっとだけでいいから希望を感じさせて欲しい。最後にきらっと光が差し込む美しい風景が、一瞬写るだけでもいい。逆に幸せなストーリーにほんのちょっとの毒があるとグッと来る。
ただただ残酷、ひたすら不運、なんとなく幸せになりそうにない雰囲気、そんなもんだけで物語を完結して満足しているのは、エゴかじゃないのかなんて思うし、そういう残酷さ全開なストーリーに簡単に泣けるのは、きっと幸せな人なのだろう。

学生時代の当初は作品を褒められる時にキレイだとか詩的だとか言われる事があったのだけど、そういう言葉をかけられると捻くれた私はそこにちょっとの毒を加えたくなる。そうして僅かな毒を盛っているうちに気づいたら、そのちょっとの毒が、画面全体に広がっていた。
以前作品について書いていただいたテキストの中に、一見鮮やかできれいな色なのに毒を持った虫のような作品だという記述があり、私自身もしっくりきた。

実際に私が一見もったりゆったりして見えるのに、毒のカタマリなのです。
だけど、其処(底)にほんのちょっとの救いやユーモアを持っているつもりだし、こんなに皮肉っぽく生きてるつもりなのに実際は間が抜けた事態に巻き込まれやすく気づいたらなかなか滑稽な人生でもあり、そのほんのちょっとのニュアンスが作品の中に(重みにだけ片寄らずに)もうちょっとだけ出てくれれば 気楽なのになぁと、思う訳です。

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